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〈江戸府内〉絵本風俗往来(明治38年・和装本)

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〈江戸府内〉絵本風俗往来(明治38年・和装本)
【判型】菊判3編2巻2冊。縦237粍。
【作者】菊池貴一郎(芦乃葉散人)作・画。
【年代等】明治38年3月自序(中編)。明治38年9月自序(下編)。明治38年11月自序(上編)。明治38年12月、山下重民序。刊。[東京]東陽堂版。
【備考】分類「風俗」。袋綴じ展開収録(飛び丁数カ所あるが落丁に非ず)。全3編からなる嘉永~幕末の江戸の風俗を著者の実体験に基づいて詳しく記し、多くの風俗画を交えて紹介した幕末期の江戸風俗の貴重資料。明治38年初刊(活版和装)。凡例によれば、上編は「十二ヶ月往来の光景(外頭の部)」、中編は「十二ヶ月家中の光景(内頭の部)」、下編は「季節に関せず、内外の別なく、思出るにまかせて綴りし(雑の部)」もの。江戸に生まれ育った市井の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを、文に絵に、時日をかけ手間ひまかけて描いた悠々たる蓄積((「MARC」データベース)。江戸生まれの好事家が、町の季節の移り変わりや武家・町家の行事のさまざまを、300枚以上の大判挿絵を添えて総頁434頁((「BOOK」データベース)。明治38年東陽堂版(複製ではなく原本)。*歌川広重 (4代目)・四代目歌川広重(よだいめ うたがわ ひろしげ、嘉永2年〈1849年〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)とは、明治から大正にかけての浮世絵師、画家。本名は菊池貴一郎、別号を蘆の葉散人(あしのはさんじん)と称す。もとは医者の田中家に生まれ、後に芝増上寺の掃除番、菊池誠一郎の養子となった。この掃除番にはじつは密偵の役目があり、貴一郎も養子に来た当座は捕方の稽古をさせられたという。幼少より書画を好み、書は御家流をものにし、絵は菊池容斎に学んだが、実子の菊池寅三(5代目歌川広重)によれば東条琴台にも絵を学んだという。明治3年(1870年)に二代立祥と号して開化絵、武者絵などを何枚か描く。「立祥」とは3代目歌川広重が使った画号であり、このことから貴一郎は2代目広重から絵を学んでいたといわれている。文明開化の頃を過ぎると浮世絵製作からは身を退いていたらしく、日本橋の本銀町1丁目(現在の日本橋本石町4丁目付近)に住居を得て妻とともに住み、寺子屋を開き子供相手に書道や漢文を教えて暮らした。明治38年(1905年)、蘆の葉散人の名で『江戸府内絵本風俗往来』2冊を出版する。明治以前の江戸の風俗事物について、自ら描いた多くの挿絵も交えて著したもので、その凡例の中では「拙きを顧みず、画する所となりしかば、画工専門を以てとがめ給わんことを」と謙遜している。菊池家は初代歌川広重が、絵師として売り出す前に出入りしていた家であった。その縁もあって貴一郎は、毎年その墓所のある東岳寺へ初代の墓参りに行き、そこの寺男に頼んで墓を守らせていた。これを寺男から聞いた東岳寺の住職は、広重の名跡を貴一郎に継いでほしいと頼みこんだ。当時、初代広重の墓はすでに無縁仏の扱いになっていたからだという。そして貴一郎は、ただ名前を継ぐだけならということで4代目広重となった。明治末年あるいは大正初年のことである。ただし一説には明治44年(1911年)12月、3代目歌川広重の未亡人安藤八重子と清水晴風が図り、貴一郎に襲名させたとも伝わる。いずれにせよ貴一郎は、直接には広重の家とは縁がなかった。大正2年(1913年)には貴一郎の名で防火研究会から『江戸の花』という絵本を出している。享年77。墓所は港区白金の興禅寺、法名は立斎院広重良義居士。SE02081

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