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改補外科調宝記
¥4,080
改補外科調宝記 【判型】横本1冊。縦110粍。 【作者】不明。 【年代等】文化2年11月補刻。江戸後期後印。[大阪]河内屋嘉七ほか板。 【備考】分類「医学」。袋綴じを展開して収録。本書は、主に身体各部に生ずる外科的疾患の症状や治療法などを整理した調法記。巻頭に「諸腫瘡の図」を掲げ、以下「癰疽(ヨウソ)総論」「同治法辨論」「脳疽(ノウソ)之論」「乳癰乳岩并諸乳病」「肺癰肺萎」「心癰」「脇癰」など99項目に分けて記す。/悪性の腫れ物について、その症状と治療法、薬方について記した書。傷についても若干の項目がある。巻初に百十一集の「諸腫瘡之図」を人体の絵とともに示している(国文学研究資料館DB)。SE02287
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温泉奇効記[草津温泉来由記]
¥1,400
★温泉奇効記[草津温泉来由記] 【判型】大本1冊。縦265粍。 【作者】不明。 【年代等】江戸中期刊(明和4年以前刊)。板。 【備考】分類「医学」。本書には諸本いずれも刊記がなく、伝本も少ないが、底本には「明和四年」の書き入れがあり、初刊年代の特定の根拠になるうえで重要。草津温泉の効能などを記した書。まず草津温泉の来由についていくつかの説を掲げ、効能にも触れる。また、温泉に因む「薬師如来霊夢の和歌」「行基ぼさつの歌」を掲げ、続いて、「温泉能毒大略」、滝之湯以下主な温泉の効能、さらに「入湯の考」「滝の湯」「御座の湯」などに分けて詳述する。 SE02233
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越氏生理各論後扁7
¥2,000
越氏生理各論後扁7 【頁数等】149頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00014
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越氏生理各論後扁6
¥2,000
越氏生理各論後扁6 【頁数等73頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00013
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越氏生理各論後扁5
¥2,000
越氏生理各論後扁5 【頁数等】77頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00012
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越氏生理各論後扁4
¥2,000
越氏生理各論後扁4 【頁数等】101頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00011
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越氏生理各論後扁3
¥2,000
越氏生理各論後扁3 【頁数等】67頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00010
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越氏生理各論後扁2
¥2,000
越氏生理各論後扁2 【頁数等】71頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00009
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越氏生理各論後扁1
¥2,000
越氏生理各論後扁1 【頁数等】97頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00008
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越氏生理各論前編4
¥2,000
越氏生理各論前編4 【頁数等】121頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00007
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越氏生理各論前編3
¥2,000
越氏生理各論前編3 【頁数等】75頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00006
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越氏生理各論前編2
¥2,000
越氏生理各論前編2 【頁数等】89頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00005
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越氏生理各論前編1
¥2,000
越氏生理各論前編1 【頁数等】 99頁 【著者等】大久保恒成筆記、村上俊平校訂 【年代等】明治10年6月7日印刷 【備考】出版人柳原喜兵衛、花井知久 大阪医学校でのオランダ人教授エルメレンスの講義を纏めたもの。 エルメレンスはミッテルブルグ出身。フローニンゲン大学卒業後、1870年(明治3年)、同年帰国したアントニウス・ボードウィンの後継者として大阪医学校(現在の大阪大学医学部)で教鞭を執った。 その後、同学校の閉鎖により辞職し、1877年(明治10年)に任期満了及びコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに交代し帰国するまで、大阪府民病院等の教師に歴任した。帰国後、1880年、39歳の若さで死去したが、大阪医界有志は中之島公園に「FOR THE MEMORY OF DR. C. J. ERMERINS 設乙越爾蔑嗹斯先生記念碑」を建て、その徳をたたえた。 前編4冊 後篇7冊 ST00004
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延寿養生伝(延寿養生、延寿撮要)
¥2,880
★延寿養生伝(延寿養生、延寿撮要) 【判型】小本1冊。縦155粍。【作者】曲直瀬玄朔作・序。 【年代等】慶長4年5月序・初刊。万治3年7月序・再刊。文化13年12月再刊。[江戸]北島順四郎ほか板。 【備考】分類「医学」。万治板の版木を流用し、万治板の半丁を1丁仕立てに直してある。冒頭・末尾の丁は原本通りの画像を納めたが、本文各丁は半丁毎に掲載した。SE02135
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延寿養生談
¥1,100
延寿養生談 【判型】半紙本1冊。縦228粍。 【作者】谷了閑作。 【年代等】文政3年初刊。江戸後期後印。[名古屋]永楽屋東四郎板。 【備考】分類「医学」。著者等は『国書総目録』による。SE02134
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〈男女御伽〉絵本目出度艸
¥1,400
★〈男女御伽〉絵本目出度艸 【判型】中本2巻2冊。縦177粍。 【作者】雪花園画。 【年代等】嘉永3年8月刊。[大阪]綿屋喜兵衛板。 【備考】分類「医学・教訓」。SE02118
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医方大成論諺解(貞享2年)
¥3,140
医方大成論諺解(貞享2年) 【判型】大本5巻合1冊。縦270粍。 【作者】岡本一抱(為竹・一抱子)作。 【年代等】貞享2年5月刊。[京都]武村新兵衛板。 【備考】分類「医学・漢籍」。袋綴じ展開収録。『医方大成論』の注釈書。平松和馬「医方大成論について」によれば、中国、西暦1300年前半、元の時代、孫允賢によって全10巻からなる「南北経験医方集成」が編纂された。これは孫允賢が、いろいろな医学書から治療効果がはっきりしている処方を病症ごとに選び出しひとつの書物としてまとめたもの。さらに、明の時代の彦明公が、孫允賢の「南北経験医方集成」に劉河間の「医方精要宣明論」、寶仙老人の「抜粋方」などにある処方を加えて増補して、書名を「南北経験医方大成」と改めた。ニホンで本書が初めて翻訳されたのは、1528年、堺の医師阿佐井野宗瑞によってである。また、「南北経験医方集成」、「南北経験医方大成」、「医書大全」には各病症名による項目ごとに、そのはじめにそれぞれ病因論、病症論が付されている。これらの病因病症論は、医学のポイントを適切にまとめたものであり、初学者にとって大変参考となるものだった。そこで、その病因病症論だけを抜き出し「医方大成論」という一冊の書物としてまとめられた。白杉悦雄著「冷えと肩こり-身体感覚の考古学」(講談社)によれば、「医方大成論」は、江戸時代の前半期に最もよく読まれた医書であり、日本における中国医書の受容という面で果たした役割はすこぶる大きい。 SE01995
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医方大成論[南北経験医方大成](明暦4年)
¥1,240
医方大成論[南北経験医方大成](明暦4年) 【判型】大本冊。縦268粍。 【作者】孫允賢作。 【年代等】至治元年(1321)、 王元福序。明暦4年4月刊。[京都]荒木利兵衛板。 【備考】分類「医学」。首題下に「宗文書堂新刊」とあり。研医会図書館HPによれば、『南北経験医方大成論』(以下、『医方大成論』という)は江戸初期から中期にかけてしばしば刊行され、その抄や解説書も数多く、大変広く読まれた。本書は、『医書大全』の中の病論だけを抜き集めて一書としたものである。SE01994
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医範提綱[〈和蘭内景〉医範提綱・西説医範提綱釈義](江戸後期)
¥1,960
医範提綱[〈和蘭内景〉医範提綱・西説医範提綱釈義](江戸後期) 【判型】大本3巻3冊。縦260粍。【作者】宇田川榛斎作。諏訪俊(士徳)書(筆記)。 【年代等】文化2年2月、諏訪俊題言。同年3月、杉田勤(紫石)序。同年7月、杉田予序。江戸後期後印。[江戸]風雪堂蔵板。須原屋伊八(青黎閣)売出。 【備考】分類「医学」。本編3冊揃い。附録の銅版図版「内象図版」1帖を欠く。 SE01992
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医範提綱[〈和蘭内景〉医範提綱・西説医範提綱釈義](弘化板)
¥1,960
医範提綱[〈和蘭内景〉医範提綱・西説医範提綱釈義](弘化板) 【判型】大本3巻3冊。縦257粍。 【作者】宇田川榛斎(璘・玄眞)訳。諏訪俊(士徳・藤井方亭)書(筆記)。 【年代等】文化2年2月、諏訪俊題言。文化2年3月、杉田勤(紫石)序。文化2年7月、杉田予序・初刊。弘化2年1月再刻。[江戸]風雲堂蔵板。須原屋伊八(青黎閣)ほか売出。 【備考】分類「医学」。蘭法解剖学・生理学書。本編3冊揃い。附録に銅版図版「内象図版」1帖がある。SE01991
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改正増補〉医道日用綱目(医道日用重宝記)
¥3,560
〈改正増補〉医道日用綱目(医道日用重宝記) 【判型】横本1冊。縦110粍。 【作者】本郷正豊(芳菊堂)作・序。 【年代等】宝永6年9月自序。安永9年3月再刊。[大阪]柏原屋清右衛門板。 【備考】分類「医学」。末尾に、異板の延享4年板を抄録した。SE01983
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医道手引草[医道日用手引艸](初篇)
¥4,880
★医道手引草[医道日用手引艸](初篇) 【判型】横本1冊。縦105粍。 【作者】医隠荻園主人序。 【年代等】弘化2年12月刊。[伏水]亀本屋半兵衛板。 【備考】分類「医学」。SE01982
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医断[醫斷]
¥1,000
医断[醫斷] 【判型】大本1冊。縦260粍。 【作者】吉益東洞(ヨシマストウドウ・吉益為則)作。 鶴田元逸(鶴冲カクチュウ・九皐)編。長門瀧長愷弥八父・原行子蔵序。 【年代等】延享4年10月自序。宝暦2年春、吉益為則跋。宝暦8年春、上田秋成跋。宝暦9年2月、中西惟忠子文跋・刊。刊行者不明。 【備考】分類「医学」。『医断』は吉益東洞の医説を、門人の鶴田元逸が集録したが、その刊行を見ずに死亡したので、同門の中西深斎が改補し、「虚実」の編を追加して、宝暦9年(1759)に刊行されたものである。東洞の独創的医説を強烈にアピールした、センセーショナルな著述で、「司命」「死生」以下「元気」「脈候」「腹候」「臓腑」「經絡」「引経報使」「鍼灸」「栄衛」「陰陽」「五行」「運気」「理」「医意」「痼疾」「素難」「本草」「修治」「相異相反」「毒薬」「薬能」「薬産」「人蔑」「古方」「名方」「仲景書」「傷寒六経」「病因」「治方」「禁宜」「量数」「産褥」「初誕」「痘疹」「攻補」「虚実」の37論よりなり、東洞の思想を端的に記載している。この書が刊行されて3年後に、畑黄山が『斥医断』を著して、「鶴氏の編する所、吉益子の医断を読むに書を廃して歎ず。大意す可きもの三、流悌を為す可き者の二、其の佗理に背き道を傷りし者、偏ねく挙ぐること難し。云々」と概歎し、全編43章にわたって、『医断』の各論をとりあげ、東洞の説にはげしい論駁を加えた。以後、『医断』の「死生」論における天命説を中心として、賛否両論にわかれ、はげしい論戦が展開された。堀江道元『弁医断』田中栄信『弁斥医断』、小幡伯英『弁医断評説』、加屋恭安『続医断』などの書物も出版されて、江戸時代最大の医説論争が長く尾を引くこととなった(青山廉平「『医断』・『斥医断』─天命説を中心として─」(日本東洋醫學雜誌、Vol. 54 No. 2287-303, 2003))。東洞(元禄15-安永2)は安芸広島の人。京都に出で古医方を唱へ、臨床治療における親試実験を重んじて、その独創的な「萬病一毒論」を提唱して名声一世に挙る。これより古医方は我国独自の性格を発展せしむるに至った。後藤艮山、香川修庵、山脇東洋とともに我邦古医方の四大家と称せられる。SE01953
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医事或問(吉益東洞)
¥1,300
医事或問(吉益東洞) 【判型】大本2巻2冊。縦266粍。 【作者】吉益東洞(ヨシマストウドウ、為則・公言・周助・東庵)作。 【年代等】明和5年、吉益猷之跋。明和6年2月自序・刊。[京都]菱屋孫兵衛板。 【備考】分類「医学」。京都で開業し古医方を唱えたが認められず貧窮に苦しんだが、後に山脇東洋に見出され、古医方の第一人者として名を馳せた吉益東洞が晩年に著した著作。問答形式で、著者の生命観や医術の根本を述べる。鈴木博夫氏は、「生命について─吉益東洞の「医事或問」から」で『医事或問』について、「彼(東洞)の大志は二千年間途絶えていた中国本来の医学を復活することで、江戸中期以後のわが国の漢方に独特の発展をもたらした。彼の著書にはすぐれたものがあるが、私は特に「医事或問」に共感を覚える。何故ならこの著書は彼の死4年前のもので、彼の医学に対する態度とか生命観、教訓などこの本に結集し、済世救命のために生命をかけて開いた自分の医学を、やがて来る死後、後人に誤りなく伝えたいという熱誠が溢れているからである。……「生死は天の司にして人の司所にあらず。医者は只病苦を救う職分」は、『医事或問』を貫く大きな主題で、これがわかれば東洞の事は、過半わかったと言って差し支えない。当時この説は「天命弁」として激しい議論の中心となった。……つまり「死生は、天の命なり」というような絶対面がある事を彼の研鑽から確立したのである。……生命観なき医書のみ多く読まざるを得なかった私が『医事或問』の中に、生命の心髄や医術の急所を発見した時、どんなに嬉しかったか、今日なお懐かしい。その後時にふれ折にふれ、『医事或問』を拝読するたびに、私を勇気づけてくれた事を、東洞先生に感謝したい」と述べている。SE01926