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観音経鈔[観音経抄]
¥1,000
観音経鈔[観音経抄] 【判型】大本2巻1冊。縦260粍。 【作者】智沅(チゲン)注。 【年代等】寛文元年11月刊。[京都]村上勘兵衛板。 【備考】分類「仏教」。SE02479
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顔氏家訓(校定顔氏家訓)
¥4,120
★顔氏家訓(校定顔氏家訓) 【判型】半紙本2巻2冊。縦239粍。【作者】顔氏(顔之推)作。朝倉璞序。【年代等】寛文2年3月初刊。文化7年7月再刊。文化7年7月刊。巌桂園蔵板。[京都]葛西市郎兵衛売出。【備考】分類「漢学・教訓」。がんしかくん【顔氏家訓 Yán shì jiā xùn】 中国,6世紀の顔之推の著。20編から成る。著者のゆたかな人生経験に裏うちされたこの書物は,たんに一家内の子弟たちを訓戒することばに終始するだけでなく,六朝時代における江南と華北両社会の家庭生活,風俗,儀礼,学術,宗教など,多方面にわたる知識を提供する。後世,家訓の祖と仰がれた。日本への伝来も早く,吉備真備の《私教類聚》はその影響のもとに成ったという。(コトバンク) SE02450
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花壇綱目[花段綱目](享保元年)
¥1,320
花壇綱目[花段綱目](享保元年) 【判型】半紙本3巻合1冊。縦225粍。 【作者】水野元勝作。松井頼母増補。 【年代等】寛文年刊作。延宝9年4月初刊(山本八兵衛ほか板)。享保元年9月再刊。[大阪]柏原屋与市板。 【備考】分類「園芸」。袋綴じ展開収録。江戸時代の園芸家,水野元勝の著書。3巻。1664年脱稿,1681年刊。1716年に再版。日本最初の園芸書。花卉200余種についてその形状や栽培法を記述したもの(コトバンク)。江戸初期に植栽技術を総合的に解説し、世界初の園芸技術書と言われ、四季折々に花を眺めて楽しむ日本ならではの自然特性を生かしたガーデニングについて記した書。植栽技術を総合的に解説した江戸前期の園芸書であり、世界最初のガーデニング書とも言われる(「解読花壇綱目」解説参照)。SE02343
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戒殺物語(寛文4年)
¥2,000
★戒殺物語(寛文4年) 【判型】大本2巻合1冊。縦270粍。 【作者】不明。 【年代等】寛文4年1月刊。刊行者不明。 【備考】分類「仮名草子」。『戒殺物語』は、殺生をテーマとして種々の寓話を載せた仮名草子。2巻2冊で、上巻は、「戒殺の事」「誕生日に殺生すべからざる事」「子を生て殺生すべからざる事」「兄弟三人の子瘂子(オシ)になりける事」「獐(クジカ)を殺すとて、我子を殺しける事」など9話、下巻は、「婚礼に魚鳥を用ひまじき事」「殺さつゝも過去の業といふ問答の事」「客をもてなす為に殺生すべからざる事」「生々流転して互に六親眷属となる事」「羊を食して死せし事」など14話。SE02275
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温泉遊草[温泉游草](2種)
¥1,000
温泉遊草[温泉游草](2種) 【判型】大本1冊。収録順に縦261・267粍。 【作者】深草元政(げんせい)(日政(にっせい)・霞谷妙牛子(かこくみょうぎゅうし)・草山妙子(そうざんみょうし)(玅子)・石井元政(もとまさ))作。片山松庵(朴元(ぼくげん))編・序。 【年代等】寛文8年12月、松庵朴元序・初刊。明治初年後印。[京都]平楽寺書店板。 【備考】分類「紀行」。同板2種を収録(別本は書袋を収録し本文は抄録)。本書は深草元政が二度にわたる有馬温泉での湯治旅行の模様を記した漢文の紀行文と旅中の折々に詠じた詩歌を収めたもの。元政の死去(寛文八年二月一八日)後に、その遺稿を見出した片山松庵が編集し、同年暮れに出版したもの。内容は、①寛文五年九月の「温泉遊草」および②寛文七年二月の「温泉再遊」と、両作品の間に挿入した③片山松庵作「悼霞谷山人詩并序」の三編から成る。①の「温泉遊草」は京都出発後の道中の様子や出来事などを記した「温泉紀行」を始め、「与慧明書」「仏座巌記」「楼岸」「天王寺拝聖徳太子十六歳像」など長短含む二〇数編で、最後の「温泉紀略」では温泉の祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)以来の温泉関連の故事を種々記す。②の「温泉再遊」は、まず「留別慧明〈有序〉」で、まず、湯治の効果を実感した作者が再び有馬を訪れるまでの経緯や、京都を旅立つ際に弟子の慧明に与えた留別の漢詩を掲げた後、「馬山途中吟」「旅宿有感」等の漢詩文のほか、「偶作」と題した漢詩文や詞書を添えた和歌六首を載せる。また、③「悼霞谷山人詩并序」では、元政の略歴と恩師追悼の七言絶句七編を掲げる。/温泉に関する江戸期刊本では最古の部類。寛文5年9月(「温泉遊草」)と寛文7年冬(「温泉再遊」)の2度にわたり、京都深草に住む作者が有馬温泉に湯治に出かけた折の紀行。再遊には和歌が含まれる。江戸時代、「温泉」を冠した作品はいくつか残るが、効能などを記したものが多く、本書のような文学的作品は案外少ない。そのためか、何度も版を重ねており、この本も明治に入って刷られたものである。元政(げんせい)[1623~1668]は、江戸前期の日蓮宗の僧。俗名は石井吉兵衛、法名は日政、号は不可思議、日峯妙子など。深草の元政と通称。父・石井元好は地下官人の家柄で、梶井宮に出仕し、のち毛利輝元の家臣となったが、仕えを退き京都に住む。13歳で彦根藩主・井伊直孝に出仕、26歳で仕えを退き、京都の日蓮宗妙顕寺の日豊のもとで出家し、仏道を修行した。学僧であったが、漢詩では石川丈山と並び称せられるほどに文学者としても有名。和歌は松永貞徳の門人で、家集に『草山和歌集』。和文では『身延道の記』、漢文では『草山集』、『扶桑隠逸伝』など多くの著書、校訂本(福岡大学図書館HP参照)。 SE02235
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韻会捷見(寛文11年)
¥6,760
★韻会捷見(寛文11年) 【判型】半紙本4巻合1冊。縦225粍。 【作者】不明。 【年代等】寛文11年8月刊。[京都]村上平楽寺板。 【備考】分類「音韻」。袋綴じ展開収録。漢字の部首と画数で即座に平仄を引けるようにした韻書。各漢字の右側に「古今韻会」の、左側には「小補韻会」の巻数および丁付けを記して利便性を高めている。なお、底本は渋沢栄一・渋沢敬三・衣笠豪谷ほか旧蔵本。 SE02016
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一念多念文意
¥2,400
★一念多念文意 【判型】大本1冊。縦258粍。 【作者】親鸞作。 【年代等】寛文4年2月刊。[京都]洛東七条寺内彫刻。 【備考】分類「真宗」。『一念多念証文』は、親鸞聖人が、同じ法然上人門下の隆寛律師が著した『一念多念分別事』に引証した経釈の要文、および関連する諸文を、一念・多念の問題に関する証文としてあげ、それに註釈を施したもの。『一念多念文意』『一多文意』とも称され、また『一多証文』『証文』とも称される。全体を2段に分け、前段は「一念をひがごととおもふまじき事」として、一念に関する要文を13文引証し、また後段は「多念をひがごととおもふまじき事」として、多念に関する要文を8文引証する。そして専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにする。法然上人門下におこった一念・多念の諍論に対して、一念や多念に偏執してはならないことを諭したのが隆寛律師の『一念多念分別事』であり、その意をうけたのが本書であるが、前段に引かれる13文の証文のうち、『一念多念分別事』からの引文はわずかに3文であり、また、後段では8文のうちの5文ほどが同書からの引文であることなどからも、本書が単なる『一念多念分別事』の註釈書ではないことが知られる(WikiArcHP参照)。 SE01957
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伊勢物語拾穂抄(2種)
¥2,720
伊勢物語拾穂抄(2種) 【判型】大本5巻5冊。収録順に縦271・267粍。 【作者】北村季吟注。北村湖春書。 【年代等】寛文3年4月、周令跋。延宝8年8月初刊。江戸前期再刊。刊行者不明。 【備考】分類「物語・注釈」。延宝板も抄録した。『伊勢物語』の旧注である『伊勢物語愚見抄』『伊勢物語肖聞抄』『伊勢物語惟清抄』『伊勢物語闕疑抄』などを取捨選択して、師・松本貞徳の説を加えながら、『闕疑抄』を中心に巧みに諸注を整理集成したもの(日本古典文学大辞典)。 SE01944
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貞永式目諺解[御成敗式目諺解](寛文9年)
¥7,600
★貞永式目諺解[御成敗式目諺解](寛文9年) 【判型】大本6巻6冊。縦275粍。 【作者】清原宣賢(舟橋宣賢・環翠軒・宗尤)注。 【年代等】天文3年閏1月作。寛文9年9月刊。[京都か]村田庄五郎板。 【備考】分類「往来物・法制」。『貞永式目諺解[御成敗式目諺解]』は、『御成敗式目』の注釈書中、最も詳細かつ最古の刊本。慶長-元和(1596-1624)頃古活字本『式目抄』を製版本で再刊したもの。第1巻冒頭で鎌倉政権樹立の経緯や『式目』の由来について10丁に及ぶ詳細な記事を載せ、続いて、『御成敗式目』の名称の意味、さらに『式目』各条を数段に句切り、和漢の諸書から引用して極めて詳しい注を施す。本文を楷書・やや小字・11行・付訓の漢字・片仮名交じり文で記す。また「天文三年閏正月廿八日」の跋文には、清三位入道環翠軒宗尤が祖父・常忠(業忠)の説によって既に注釈書を著してあったが、局務外史業賢がそれを盗んだので、再び本書を著したとある。 SE01459
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百人一首抄(細川幽斎・寛文3年)
¥1,460
百人一首抄(細川幽斎・寛文3年) 【判型】大本3巻1冊。縦261粍。 【作者】細川幽斎注。 【年代等】寛文3年4月刊。[京都]安田十兵衛板。 【備考】分類「百人一首」。 SE01614
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百人一首基箭抄(基箭抄)
¥1,420
百人一首基箭抄(基箭抄) 【判型】大本3巻2冊。縦253粍。 【作者】井上秋扇編。北村季吟序。 【年代等】寛文13年初刊。延宝8年6月再刊。享保6年春再刊。寛延3年再刊。文化2年冬求板。[大阪]増田屋源兵衛ほか板。 【備考】分類「百人一首」。細川幽斎の『百人一首抄』を参考に編集したもの。作者の伝記と歌の解釈。後に出版された絵入版本は広く読まれ『百人一首』の啓蒙に大きな力となった(大阪府立中之島図書館HP)。 SE01611
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女筆手本(異板4種)
¥5,760
★女筆手本(異板4種) 【判型】大本2巻2冊または2巻合1冊。収録順に縦266・260・258・270粍。 【作者】不明。 【年代等】寛文2年刊(刊行者不明)。江戸前期刊(刊行者不明)。江戸中期(享保17年以前)刊(刊行者不明)。宝永元年1月刊([京都]和泉屋茂兵衛板)。 【備考】分類「往来物」。いずれも、江戸前期(万治頃)『〈新板〉女手本〈かはり〉』2巻2冊の増補・改編本。同書は、類書中現存最古と思われるが、題簽に「かはり」と付記する点で、先行書の存在も否定できない。同書は全2巻からなる、筆者不明の散らし書き女筆手本で、上巻に「新年祝儀状」から「久しぶりの友人からの手紙と菓子折の礼状」までの6通、下巻に「上巳(桃)の節供祝儀状」から「京都・東福寺の通天の紅葉見物誘引状」までの7通の合計13通を収録する。以下、4本を全冊、袋綴じ展開収録した。 ●A=寛文2年「女筆手本(仮称)」2巻2冊 江戸前期(万治頃か)刊『〈新板〉女手本〈かはり〉』2巻2冊の増補版。寛文板の現存本は下巻のみだが、同系統の増補版である江戸前期刊『〈新板〉女筆手本』2巻2冊や江戸中期(享保17年以前)刊『女筆手本(仮称)』2巻合1冊から、寛文板の上巻は、「新年祝儀状」以下8通(すなわち『〈新板〉女手本〈かはり〉』に2通増補)と思われる。また、下巻は「上巳(桃)の節供祝儀状」から「京都・東福寺の通天の紅葉見物誘引状」までの7通に「今朝の初雪の様子を尋ね、今晩の催し物に招く文」から「歳暮祝儀状」までの3通を増補したもので、合計18通程の散らし書き女筆手本である。 ●B=江戸前期「〈新板〉女筆手本」2巻2冊 江戸前期(万治頃か)刊『〈新板〉女手本〈かはり〉』2巻2冊の増補版だが、寛文2年板の上巻から「男子出産を祝う文」の1通、下巻から「姫君(友人の娘)婚礼祝儀状」の1通を割愛したもの。その結果、上巻に「新年祝儀状」から「昨晩の訪問時の歓待に対する礼状」までの7通、下巻に「上巳(桃)の節供祝儀状」から「歳暮祝儀状」までの9通、合計16通を収録。 ●C=江戸中期(享保17年以前)「女筆手本(仮称)」2巻合1冊 江戸前期(万治頃か)刊『〈新板〉女手本〈かはり〉』2巻2冊の増補版だが、寛文2年板の下巻から「姫君(友人の娘)婚礼祝儀状」の1通を割愛したもので、上巻8通、下巻9通の合計17通を収録。また、巻頭口絵に石山寺における紫式部の『源氏物語』執筆や近江八景をあしらった挿絵など2葉を掲げる。 ●D=宝永元年([京都]和泉屋茂兵衛板)「女筆手本(仮称)」2巻2冊 江戸前期(万治頃か)刊『〈新板〉女手本〈かはり〉』2巻2冊の増補版だが、上下巻の書状を複雑に入れ替えたもので、現存する上巻には、先行書の上巻の書状から5通、下巻から2通を抜粋して順序を大幅に組み替えてある。本書目次によれば、上巻に「はやざきの梅花おくる文」から「物をもらいて礼やる文」までの7通、下巻に「ほとゝぎすの初音聞てやる文」から「さん(産)所え祝ひにやるふみ」までの10通の合計17通を収録。巻頭に書状を書く女性と側に控える女性を描いた縁側風景図を掲げる。 SE01528
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貞永式目諺解[御成敗式目諺解](寛文9年)
¥7,600
★貞永式目諺解[御成敗式目諺解](寛文9年) 【判型】大本6巻6冊。縦275粍。 【作者】清原宣賢(舟橋宣賢・環翠軒・宗尤)注。 【年代等】天文3年閏1月作。寛文9年9月刊。[京都か]村田庄五郎板。 【備考】分類「往来物・法制」。『貞永式目諺解[御成敗式目諺解]』は、『御成敗式目』の注釈書中、最も詳細かつ最古の刊本。慶長-元和(1596-1624)頃古活字本『式目抄』を製版本で再刊したもの。第1巻冒頭で鎌倉政権樹立の経緯や『式目』の由来について10丁に及ぶ詳細な記事を載せ、続いて、『御成敗式目』の名称の意味、さらに『式目』各条を数段に句切り、和漢の諸書から引用して極めて詳しい注を施す。本文を楷書・やや小字・11行・付訓の漢字・片仮名交じり文で記す。また「天文三年閏正月廿八日」の跋文には、清三位入道環翠軒宗尤が祖父・常忠(業忠)の説によって既に注釈書を著してあったが、局務外史業賢がそれを盗んだので、再び本書を著したとある。 SE01459
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武家百人一首(元禄16年・2種)
¥2,220
武家百人一首(元禄16年・2種) 【判型】大本1冊。収録順に縦252・254粍。 【作者】榊原忠次(松平忠次)編。 【年代等】寛文6年10月初刊([京都]谷岡七左右衛門板)。元禄16年6月再刊([大阪]渋川清右衛門板)。 【備考】分類「和歌・百人一首」。元禄16年板を2種収録。うち後者は袋綴じ展開収録。『武家百人一首』は、「経基王」から「太政大臣、源義高公」までの武人の名歌百首を集めた異種百人一首。尾崎雅嘉が『群書一覧』で本書の編者を「榊原忠次」として以来、その説が踏襲されているが疑義がある。本書に撰入された武人は、清和源氏の祖、六孫王経基から始まって、足利11代将軍義澄までを収めており、12代義晴が将軍になった大永3年(1521)以前の撰と思われる。各歌の出典は概ね(86首)勅撰集で、『新続古』17首、『新後拾』10首、『風雅』9首、『千載』9首などである。いずれにしても、異種百人一首の刊本で最も古いものがこの『武家百人一首』であり、その普及によって、山田賞月堂編、安政5年刊『武家百人一首』(本書の改編版)、伊達吉村撰『新撰武家百人一首』や、松平定以撰、文政7年跋『後撰武家百人一首』『続武家百首』、さらに、これらに準えた緑亭川柳撰、弘化2年刊『英雄百人一首』、源満昭編、嘉永7年刊『勇猛百人一首』など多数の類書が登場した(伊藤嘉夫「武家百人一首と其の類列の百人一首」参照)。/「武家百人一首」(編者:榊原忠次、成立:万治3年・1660年頃)。これは平安時代の六孫王・源経基から室町幕府の第11代将軍・足利義高まで至る武将100人を時代順に配列したもの。本書の跋文によると、和歌の良し悪しは関係なく武将として著名な人物が集められ、和歌のほとんどが著名な作者に仮託されたものという。 SE01622
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★黎民百姓御訴訟状ほか 【作者】勅使河原某(武蔵小机都筑郡大棚郷住人)作(黎民百姓御訴訟状)
¥4,400
★黎民百姓御訴訟状ほか 【判型】特大本1冊。縦273粍。 【作者】勅使河原某(武蔵小机都筑郡大棚郷住人)作(黎民百姓御訴訟状)。 【年代等】寛文~延宝頃書。 【備考】分類「往来物」。(1)黎民百姓御訴訟状(文禄5年の訴状)、(2)義経之含状(延宝4年の書き入れ)、(3)童子教(寛文9年書)、(4)手習学文教訓之状(寛文4年書)、(5)暮戦之状(建久4年5月)、(6)弁慶状、(7)熊谷送状、(8)経盛返状の8種を収録した往来物。特に「黎民百姓御訴訟状」は、文禄5年(1596)2月に百姓から郡奉行宛に出された訴状を手習本としたもの。末尾には「御披露、武蔵国小机之内、都筑郡大棚之郷之住人、作者勅使河原記□」とある。本文は「謹而奉拝上。夫、天地之御代、天下之国郡令分記給時、四海トモ一反歩三百六十歩被相定候…」と起筆して、太閤検地以後の年貢負担の増加による農民の惨状を伝え、農民の生活の窮乏を救う役所の慈悲を求めたもの。本往来は信州上田領内小井田村で使用されたもので、本訴状に続けて、「延宝四年」の書き入れのある「義経之含状」や、寛文9年書「童子教」、寛文4年書「手習学文教訓之状」、「暮戦之状」(建久4年5月)、「弁慶状」、「熊谷送状」「経盛返状」を合綴するため、本訴状が江戸前期より往来物として使用されていたことを明快に示しており、訴状型往来の先駆としても極めて重要である。 08社レイミンヒャクショウオンソショウジョウホカ★【往来物】55 SE01058
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羽倉目安(附教訓歌・年代不明)
¥1,400
羽倉目安(附教訓歌・年代不明) 【判型】特大本1冊。縦290粍。 【作者】不明。 【年代等】書写年不明(江戸中-後期書)。 【備考】分類「往来物」。『羽倉目安[信濃越後境論]』は、越後国魚沼郡妻有(つまあり)庄羽倉(はくら)村(新潟県津南町寺石)と信濃国水内(みのち)郡森村(長野県栄村)との間に起こった山論に関して幕府に提出した訴状を手習本にした目安往来物。『白峯銀山目安』の影響下に生まれたと考えられる。内容は、寛文12年(1672)6月に羽倉村が幕府に提訴した訴状と、同年8月の森村からの返答書からなる。幕府評定所からは検使が派遣されて実地検分が行われ、延宝2年(1674)8月の幕府裁定により論地は羽倉村領とされた。『羽倉目安』は家蔵本でも17点、新潟県内で20点以上とかなりの流布を見た。底本は、使用地域不明で、巻末に教訓歌3首を付す。 08社ハクラメヤス09(附教訓歌・年代不明)【往来物】20 SE01036
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羽倉目安[乍恐以書付申上候] 【作者】不明(渡辺氏書カ)
¥2,000
羽倉目安[乍恐以書付申上候] 【判型】特大本1冊。縦290粍。 【作者】不明(渡辺氏書カ)。 【年代等】江戸後期書。 【備考】分類「往来物」。『羽倉目安[信濃越後境論]』は、越後国魚沼郡妻有(つまあり)庄羽倉(はくら)村(新潟県津南町寺石)と信濃国水内(みのち)郡森村(長野県栄村)との間に起こった山論に関して幕府に提出した訴状を手習本にした目安往来物。『白峯銀山目安』の影響下に生まれたと考えられる。内容は、寛文12年(1672)6月に羽倉村が幕府に提訴した訴状と、同年8月の森村からの返答書からなる。幕府評定所からは検使が派遣されて実地検分が行われ、延宝2年(1674)8月の幕府裁定により論地は羽倉村領とされた。『羽倉目安』は家蔵本でも17点、新潟県内で20点以上とかなりの流布を見た。末尾に、底本と共に出てきたと思われる手習本(庭訓往来、実語教童子教)を抄録。これらは、越後国魚田川村(ウオノタガワムラ*新潟県十日町市)の波形寅松が使用した手習本で、これらと同時期の手習本か。 08社ハクラメヤス14(江戸後期)【往来物】33 SE01041
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★武家諸法度〈大橋殿真筆〉(寛文板後印) 【作者】大橋重政書
¥2,800
★武家諸法度〈大橋殿真筆〉(寛文板後印) 【判型】大本1冊。縦257粍。【作者】大橋重政書。【年代等】寛文8年初刊。江戸前期後印。刊行者不明。 【備考】分類「往来物」。寛文8年初板本(京都か]左兵衛(とらや左兵衛か)板)は三次市立図書館所蔵。底本はその後印本と思われる。寛永一二年(一六三五)六月二一日公布の『武家諸法度』を認めた手本。寛永一二年『武家諸法度』の原文は返り点・送り仮名(片仮名)付きの漢文体だが、本往来では、所々、片仮名による読み仮名を加えた本文を大字・四行・付訓の手本用に改編する。『武家諸法度』は幕府の基本法典の一つで、豊臣政権が滅亡した元和元年(一六一五)七月七日、徳川家康が諸大名に公布したのが初令。「一、文武弓馬之道専可相嗜事」以下の一三カ条から成り、主として大名を対象に、品行方正、反逆・殺害人の追放、居城修理の申告、私婚の禁止、参勤の作法、衣服・乗輿の制などを定める。その後、元和三年六月、寛永六年(一六二九)九月に改訂され、同一二年六月に大幅改訂されたのが寛永一二年の法度である。全文一九カ条から成り、特に大名の在江戸(参勤)交代の義務、城郭の新築禁止・修理の届出制、私的結集と私闘の禁、道路交通の保証、五〇〇石以上の大船建造停止、寺社領の固定、そして最後に「万事如江戸之法度於国々所々可遵行之事」などの規定を新たに設けた。本往来が、四代・家綱の治世下で改訂法度が発布された寛文三年(一六六三)五月より五年後の同八年(一六六八)年八月の刊行にもかかわらず、寛永一二年法度を底本にするのは、同法度がその後の『武家諸法度』の定形となったためであろう。 08社ブケショハット-オオハシドノシンピツ(寛文板後印)★【往来物】15 SE01047
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羽倉村目安写(江戸中期カ*越後新山村) 【作者】不明(井口氏書カ)
¥1,400
羽倉村目安写(江戸中期カ*越後新山村) 【判型】特大本1冊。縦300粍。 【作者】不明(井口氏書カ)。 【年代等】江戸中期書カ。 【備考】分類「往来物」。『羽倉目安[信濃越後境論]』は、越後国魚沼郡妻有(つまあり)庄羽倉(はくら)村(新潟県津南町寺石)と信濃国水内(みのち)郡森村(長野県栄村)との間に起こった山論に関して幕府に提出した訴状を手習本にした目安往来物。『白峯銀山目安』の影響下に生まれたと考えられる。内容は、寛文12年(1672)6月に羽倉村が幕府に提訴した訴状と、同年8月の森村からの返答書からなる。幕府評定所からは検使が派遣されて実地検分が行われ、延宝2年(1674)8月の幕府裁定により論地は羽倉村領とされた。『羽倉目安』は家蔵本でも17点、新潟県内で20点以上とかなりの流布を見た。底本は、「越後新山村/山岸」の墨判を押す。 08社ハクラメヤス11(江戸中期カ*越後新山村)【往来物】12 SE01038
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御成敗式目(寛文5年・山本板) 【作者】北条泰時編
¥2,000
御成敗式目(寛文5年・山本板) 【判型】大本1冊。縦272粍。 【作者】北条泰時編。 【年代等】寛文5年12月刊。[京都カ]山本九兵衛板。 【備考】分類「往来物・法制」。 08社ゴセイバイシキモク(寛文5年・山本板)【往来物・法制】39 SE00929
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御成敗式目(寛文11年) 【作者】北条泰時編
¥2,000
御成敗式目(寛文11年) 【判型】大本1冊。縦258粍。 【作者】北条泰時編。 【年代等】寛文11年1月刊。[京都]山森六兵衛板。 【備考】分類「往来物・制法」。末尾数丁破損。 08社ゴセイバイシキモク(寛文11年)【往来物・法制】41 SE00928
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★〈頭書〉新用文章[新板用文章](寛文板系統、無郭・頭注本4種) 【作者】不明
¥9,120
★〈頭書〉新用文章[新板用文章](寛文板系統、無郭・頭注本4種) 【判型】大本2巻1冊。収録順に縦270・262・272・272粍。 【作者】不明。 【年代等】江戸前期(寛文頃)刊。[江戸]松会板。 【備考】分類「往来物」。寛文板系統の無郭・頭注本4種を収録(袋綴じ展開収録。冒頭の収録書は上巻に落丁と乱丁あり)。『新用文章(新板用文章(障))』は、江戸前期~中期に普及した初期用文章の典型。書名を異にする異板や異本、また改題本などが多数存在するが、本文のみの純然たる手本である明暦板系統と、頭書に絵抄・注釈を加えた寛文板系統の2種に大別される(それぞれ下巻第2状「借用申銀子之事」の末尾に「明暦二年」または「寛文二年」と記載)。明暦板系統は、上巻に「正月初て状を遣事」から「年の暮に祝を得たる時礼状之事」までの19通(大半が用件中心)、下巻に「家売券状之書様之事」以下4例の証文類文例と「諸道具字づくしの事」「着類字づくしの事」「編并冠字づくしの事」の語彙集に加えて「義経含状」(寛文板系統では削除されたり、「国尽」と置き換えられた)を収録する。いずれも、本文を大字・4行・付訓で記す。以上の例文は寛文板系統では書状数が若干減ったり配列が変更されたほか、消息例文中第7状の「かしく」、第10状の「恐惶かしく」といった書止が「謹言」「恐々」等に改められるなど、「かしく」の使用を意図的に排除した形跡も窺われる。さらに証文文例では寛文板系統では「売主誰」「請人誰」のように署名について注意を喚起するなど実用面での前進が見られる。今日知られる板種には明暦板系統として、(1)明暦3年・松会板(外題『〈江戸〉新用文章』)、(2)明暦頃・松会板異板、(3)明暦頃刊異板(少なくとも3種。うち一本の外題は『〈かわり〉新板用文章』)、(4)万治3年・山本板、(5)寛文6年・秋田屋板(外題『新板用文章』)、そして、これらを大幅に改めた改題本(6)江戸前期刊『〈新判〉新用字尽』の8種、また寛文板系統として(7)頭書注釈付き村田屋板、(8)頭書注釈付き異板(外題『〈大字〉新板用文章』)、(9)頭書絵抄付き村田屋板、(10)頭書絵抄付き異板の4種が見られ、このほか明暦板系統の改題本として『筆得要文春秋袋』(江戸中期・糸屋板)、また本書の影響を受けた用文章として正徳2年以前刊『至宝用文章』、正徳2年頃刊『万物用文章』、宝暦4年刊『新撰容文筆玉往来』、安永2年以前刊『〈新板〉万宝用文章』、江戸中期刊『新用文章』、文化5年求板『通宝用文章』、江戸後期刊『〈証文字尽〉用文章手習鑑』などが知られる。このように、本書は後続の類本に多大な影響を与えた江戸期最初の用文章として極めて重要である。 03消シンヨウブンショウ-カシラガキ・シンパンヨウブンショウ(寛文板系統、無郭・頭注本4種)★【往来物】114 SE00248
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★新用文章[新板用文章](明暦板系統、寛文6年他3種) 【作者】不明
¥6,080
★新用文章[新板用文章](明暦板系統、寛文6年他3種) 【判型】大本2巻2冊。収録順に縦255・256・259粍。 【作者】不明。 【年代等】寛文6年6月刊。[京都カ]秋田屋■兵衛板。 【備考】分類「往来物」。初板本および異板5種を収録(袋綴じ展開収録)。『新用文 章(新板用文章(障))』は、江戸前期~中期に普及した初期用文章の典型。書名を 異にする異板や異本、また改題本などが多数存在するが、本文のみの純然たる手 本である明暦板系統と、頭書に絵抄・注釈を加えた寛文板系統の2種に大別される (それぞれ下巻第2状「借用申銀子之事」の末尾に「明暦二年」または「寛文二年」と 記載)。明暦板系統は、上巻に「正月初て状を遣事」から「年の暮に祝を得たる時礼 状之事」までの19通(大半が用件中心)、下巻に「家売券状之書様之事」以下4例の 証文類文例と「諸道具字づくしの事」「着類字づくしの事」「編并冠字づくしの事」の語 彙集に加えて「義経含状」(寛文板系統では削除されたり、「国尽」と置き換えられた )を収録する。いずれも、本文を大字・4行・付訓で記す。以上の例文は寛文板系統 では書状数が若干減ったり配列が変更されたほか、消息例文中第7状の「かしく」、 第10状の「恐惶かしく」といった書止が「謹言」「恐々」等に改められるなど、「かしく」 の使用を意図的に排除した形跡も窺われる。さらに証文文例では寛文板系統では「 売主誰」「請人誰」のように署名について注意を喚起するなど実用面での前進が見 られる。今日知られる板種には明暦板系統として、(1)明暦3年・松会板(外題『〈江 戸〉新用文章』)、(2)明暦頃・松会板異板、(3)明暦頃刊異板(少なくとも3種。うち一 本の外題は『〈かわり〉新板用文章』)、(4)万治3年・山本板、(5)寛文6年・秋田屋板 (外題『新板用文章』)、そして、これらを大幅に改めた改題本(6)江戸前期刊『〈新 判〉新用字尽』の8種、また寛文板系統として(7)頭書注釈付き村田屋板、(8)頭書 注釈付き異板(外題『〈大字〉新板用文章』)、(9)頭書絵抄付き村田屋板、(10)頭書 絵抄付き異板の4種が見られ、このほか明暦板系統の改題本として『筆得要文春秋 袋』(江戸中期・糸屋板)、また本書の影響を受けた用文章として正徳2年以前刊『至 宝用文章』、正徳2年頃刊『万物用文章』、宝暦4年刊『新撰容文筆玉往来』、安永2 年以前刊『〈新板〉万宝用文章』、江戸中期刊『新用文章』、文化5年求板『通宝用文 章』、江戸後期刊『〈証文字尽〉用文章手習鑑』などが知られる。このように、本書は 後続の類本に多大な影響を与えた江戸期最初の用文章として極めて重要である。 03消シンヨウブンショウ・シンパンヨウブンショウ(明暦板系統、寛文6年他3種)★【往来物】76 SE00247
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★新用文章[新板文章](江戸前期、附「細川幽斎状」) 【作者】不明
¥4,000
★新用文章[新板文章](江戸前期、附「細川幽斎状」) 【判型】大本2巻2冊カ。上下取り合わせ、上巻縦268粍、下巻266粍。 【作者】不明。 【年代等】寛文頃刊。刊行者不明。 【備考】分類「往来物」。『〈江戸〉新用文章』の影響下に編まれた用文章の一つで、版式等から寛文頃の刊行と思われる。上巻には「正月初て状を遣事」から「庭前の花盛に人をよびに遣す状の事」までの15通と「瀟湘八景詩歌」(絵入り)、下巻に「家沽券状(うりけんじょう)書様の事」「金銀借状書様の事」「借家請状書様之事」「奉公人年季之書様之事」の4通と「平安城竪横町之名(京町尽)」「十二月之異名」「偏并冠の字尽」「細川幽斎状」を収録する。本文を大字・4~5行・ほとんど付訓で記す。冒頭などに『〈江戸〉新用文章』と同様の主題や似通った例文が数通含むが、五節句・四季など『〈江戸〉新用文章(新板用文障)』にはあまり見られない四季用文や差出人・宛名人・脇付等の表記も多く、全体として他の『新板用文障』類に比べて独自性が強い。また上巻後半部の「瀟湘八景」は、各風景の漢詩文(八景詩)一首毎に大字・5行・ほとんど付訓で記し、その裏側に風景画とともに「瀟湘八景和歌」を掲げたもの。『新板用文障』類では亜流に位置づけられるが、逆に初期用文章の展開を知る好史料となろう。 03消シンヨウブンショウ・シンパンブンショウ(江戸前期、附「細川幽斎状」)★【往来物】48 SE00244