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看命一掌金和解[一掌金和解]
¥1,960
看命一掌金和解[一掌金和解] 【判型】横本1冊。縦128粍。 【作者】一行(大慧禅師*唐の人、683-727)作。胡文会堂校。馬場信武(尾田玄古)注(和解)。 【年代等】宝永2年9月刊。[大阪]柏原屋清右衛門ほか板。 【備考】分類「占卜・医学」。初期の八卦の主要な占法は借度法といい、年齢数による循環の方式による占いであるが、こうした循環方式の原形について、馬場信武は中国の『看命一掌金』に注目したらしく、元禄2年(1689)に和刻本『新刻看命一掌金』が出版された後、自ら宝永2年(1705)に『新刻看命一掌金和解』を著している。『看命一掌金』は唐代の一行禅師という僧侶によって著されたとされるもので、12星を配した円形の図、十二月生、十二時生、十二時初中末生人吉凶といった内容になっている。和刻本の序文には「男順行女逆行吉凶可驗矣。」の語があり、循環の方向と男女の区別について、日本の八卦占法と同様の機構となっていることがわかる(江戸の易占HP参照)。 SE02491
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〈重刻正字〉画引十体千字文綱目(2種)
¥1,460
〈重刻正字〉画引十体千字文綱目(2種) 【判型】半紙本1冊。収録順に縦226・222粍。 【作者】不明。 【年代等】宝永元年6月初刊。宝暦6年6月再刊。天保7年1月再刊。嘉永2年3月再刊。[京都]天王寺屋市郎兵衛板。 【備考】分類「書道」。天保7年板も抄録した。周興嗣の『千字文』を楷書・小篆・大篆・署書・摸印・隷書・行書など様々な書体で綴り、頭書に「偏冠尽」。SE02311
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〈増補〉華夷通商考(増補華夷通商考)
¥3,600
〈増補〉華夷通商考(増補華夷通商考) 【判型】半紙本5巻5冊。縦225粍。 【作者】西川如見(求林斎)作。錦山楼序。 【年代等】宝永5年3月刊記。宝永6年2月序・刊。[京都]梅村弥右衛門、今井七郎兵衛板。 【備考】分類「外国地誌」。SE02279
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雨中訓(亀山訓)
¥2,000
★雨中訓(亀山訓) 【判型】大本1冊。縦245粍。 【作者】松平乗邑(ノリサト)作。【年代等】宝永8年作・書。 【備考】分類「教訓」。松平乗邑は貞享3年生まれ、延享4年没(61歳)の大名で、宝永7年に伊勢亀山藩主となる。後、勝手掛老中となり、享保の改革で活躍した。 SE02041
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改正増補〉医道日用綱目(医道日用重宝記)
¥3,560
〈改正増補〉医道日用綱目(医道日用重宝記) 【判型】横本1冊。縦110粍。 【作者】本郷正豊(芳菊堂)作・序。 【年代等】宝永6年9月自序。安永9年3月再刊。[大阪]柏原屋清右衛門板。 【備考】分類「医学」。末尾に、異板の延享4年板を抄録した。SE01983
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〈伊勢山田選集〉伊勢大神宮続神異記[おかげまいり宝永神異記]
¥1,900
〈伊勢山田選集〉伊勢大神宮続神異記[おかげまいり宝永神異記] 【判型】半紙本2巻2冊+異板下巻1冊。縦225(2冊本)・221(下巻)粍。 【作者】中西弘乗(度会弘乗)作。 【年代等】宝永3年1月、宮秋陽序。宝永3年1月、馬瀬秦(成美)跋。元文4年3月刊。[京都]菊屋喜兵衛ほか板。 【備考】分類「神社」。2冊揃いは元文板。下巻1冊は宝永板か。『伊勢太神宮神異記』は、伊勢神宮に関する神異霊験の出来事を記した書。豊受大神宮(外宮)の禰宜度会延佳の著。上下2巻。奥書によれば、寛文6年7月12日に稿を成し、伊勢山田にて刊行された。その版木は神宮の豊宮崎文庫に奉納されたという。霊験譚編集の趣旨は、神宮にまつわる神異のうち、民間信仰者の「妄言」による「妖術奇怪」に属することを避け、信心をもととした神の感応を明らかにしうる霊験について記したとする。俗説の否定、民衆の教化と神職たちの心構えを正すことを目指したものといえる。著者が外宮の詞官だったため、外宮神主の話とするものが多い。神域侵犯や肉食禁忌のことなど多様な話が収められている。同類の書に度会(中西)弘乗編『伊勢太神宮続神異記』2巻がある。宝永3年、伊勢山田で刊行された。延佳の神異記を意識し、その続編として子女教化のため著わしたもので、前年のお蔭参りの各地の様子を神異の現れとみて記しており、前著とは構想を異にしている(古代史ブログ講座参照)。SE01938
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伊勢参宮按内記[両宮按内記]
¥1,680
伊勢参宮按内記[両宮按内記] 【判型】半紙本2巻合1冊。縦224粍。 【作者】講古堂主人(藤原伊兵衛・加藤長兵衛・藤原重邑)作・序。 【年代等】宝永4年8月自序。宝永4年9月初刊([京都]今井喜兵衛ほか板)。元文4年3月再刊。[京都]菊屋喜兵衛ほか板。 【備考】分類「地誌」。伊勢両宮参詣の絵入り案内記。 SE01934
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〈教諭〉意散迷艸[いさめ草・諫草・愚蒙いさめ草]
¥1,840
〈教諭〉意散迷艸[いさめ草・諫草・愚蒙いさめ草] 【判型】大本2巻2冊。縦261粍。 【作者】勝田祐義作カ。 【年代等】宝永3年4月序・初刊。江戸後期再刊。[大阪]秋田屋太右衛門ほか板。 【備考】分類「教訓」。後印の別本も抄録した。自らの亀鑑として、また子孫の教訓のために「聖賢ノ金言佳句」を集めて編んだ童蒙用教訓書。上巻に131項、下巻に96項の合計227項を収録する。主に、学問・教育の大切さや儒教倫理、金銭の価値、その他日常生活の心構えなど諸般の内容に及ぶ。本書には、挿絵数葉を含む絵入り本もあるが、天明2年再板本では挿絵が削除された。また、本書から約半分の109項を任意に抽出した改編本『子孫宝草』(伊藤芳脩編)が文化13年に刊行されている。なお、本書初板本には作者・板元名とも無記載だが、『正徳五年書目』には板元に「梅村」とあり、『享保14年書目』は作者を勝田祐義とする。SE01919
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会津孝子伝(2種)
¥6,200
★会津孝子伝(2種) 【判型】半紙本5巻5冊。収録順に縦226・226粍。 【作者】森与兵衛(守次・雪翁・雪斎)・森与市郎(守命)作。執斎希賢(マレカタ)序。 【年代等】宝永7年6月森雪翁序。享保16年3月序。寛保2年1月刊。[京都]茨城多左衛門・梅村弥右衛門板。 【備考】分類「伝記」。同板2種を収録した。本書は、会津領内で褒賞を受けた人物を始めとする忠孝者たちの伝記。作者の森守次は、若松城下の町名主役。為政者の目から見た理想の農民や商人・職人が中心だが、会津の庶民の暮らしや生き方の一端をが分かる史料として興味深い。『日本教育文庫・孝義篇』に翻刻を収める。『日本教育文庫・孝義篇』に翻刻を収める。なお、福島県立博物館HPに次の解説がある。「江戸時代には、儒教の教えが社会に広まり、親に対する孝、主人に対する忠などの徳目が尊重されました。諸藩では、庶民教化のねらいから、孝行者や忠節者の表彰が行われ、会津藩でも、保科正之の治世以降、領民に対する褒賞がたびたび行われました。「会津孝子伝」は、会津領内で褒賞を受けた人物をはじめとする忠孝者たちの伝記です。作者の森守次(雪翁)は、若松城下の町名主役を勤め、学問も修めた人物で、宝永7(1710)年に、この書物をまとめました。とりあげられている忠孝者たちは、為政者の目から見た理想の農民や商人・職人たちということもできます。また当時の社会の考え方を基準に選ばれた「善行」なので、現代人にとっては違和感を覚える内容も含まれています。それでもなお、この書物が魅力的なのは、描き出されることの少ない会津の庶民の暮らしや生き方を伝えているからではないでしょうか」。 SE01832
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文車〈女筆〉[〈当流新抄〉万宝女文章](2種)
¥4,360
★文車〈女筆〉[〈当流新抄〉万宝女文章](2種) 【判型】大本3巻3冊。収録順に縦263・260粍。 【作者】吉田半兵衛画か。 【年代等】宝永6年初刊。宝永7年1月再刊。[大阪]秋田屋市兵衛(大野木市兵衛・宝文堂)板。 【備考】分類「往来物」。袋綴じ展開収録(見開き図再掲)。改題本の『〈当流新抄〉万宝女文章』(上中巻)も収録した。『文車〈女筆〉』は、大本3巻3冊の女筆手本で、もと貞享5年刊『当流女文章』の下巻末の記事を削除した改題本。上巻には「新年祝儀に呉服を贈る文」以下9通、中巻には「婚礼祝儀状」以下9通、下巻には「昨晩の訪問についての文」以下6通の合計24通を収録するが、特に、貞享頃に活躍した上方の版下絵師・吉田半兵衛の挿絵を多く掲げるのが特徴で、上巻9葉、中巻10葉、下巻4葉の合計23葉を掲げる。『当流女文章』の改題本には本書のほかに『〈当流絵抄〉万宝女文』があるが、付録記事などの関係から『〈当流絵抄〉万宝女文』の方が先行書と思われる。なお、本書の解題にあたって題簽題に「女筆」と小書きされたのは、女筆手本であることを強調した結果か。いずれにしても、筆跡・挿絵が豊富な女筆手本類として特異な存在である。 SE01533
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白峯銀山目安(宝永-享保期・4種*高精細) 【作者】安藤某書カ
¥3,680
★白峯銀山目安(宝永-享保期・4種*高精細) 【判型】特大本1冊。縦295/295/287/290粍。 【作者】安藤某書カ/高田越後少将上総介御内御役人書/坂和庄吉書/不明。 【年代等】】宝永5年1月書/正徳3年1月書/享保2年2月書/享保11年2月書。 【備考】分類「往来物」。宝永5年、正徳3年、享保2年、享保11年の4点を高精細画像で収録。上記のデータは宝永5年以下年代順に/で区切って記載した(共通の項目は一項のみ記載)。『白峯銀山目安』は、越後・会津国境に位置する上田銀山(新潟県魚沼市*旧湯之谷(ゆのたに)村。奥只見湖中に水没)の帰属をめぐる争論において、寛永19年4月に会津側百姓等が幕府に提出した訴状と、それに対する越後側百姓等の同年7月返答書からなる目安往来物(上田銀山をめぐる争論は、幕府の裁許状では、数多い証拠から越後側の主張を正当とし、越後側の勝訴で決着)。本往来は『白岩目安』の影響下に生まれたもので、さらに本往来から派生的に『羽倉目安』が誕生したと考えられる。/新潟県魚沼市と福島県檜枝岐村に属する。寛永18年(1641)銀山が発見され、翌年銀山をめぐる境界紛争が起こり、正保3年(1646)に今日のような両県の境界が確定した(コトバンク参照)。宝永5年本は現存最古。正徳3年本は、越後魚沼郡宮村で使用された手習本。享保2年本は、越後国魚沼郡目来田村(現・新潟県南魚沼市)で使用された手習本。享保11年本は、表紙に「小出嶋組湯中居村(新潟県魚沼市上折立)持主、冨永喜助」、裏表紙に「越後魚沼郡藪神庄小出嶋組」と記す。 SE01462
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★女筆子日松
¥6,480
★女筆子日松 【判型】特大本3巻3冊。縦306粍。 【作者】不明(女性)。 【年代等】宝永2年3月序。宝永2年5月刊。[京都か]柳心板。 【備考】分類「往来物」。袋綴じ展開収録(短冊図のみ再掲)。題簽題は各巻毎に異なり、上巻『女筆子日松』、中巻『女筆姫小松カ』(序文から推測)、下巻『相生のまつ』。序文によれば、筆者が20年間かけて集めた女筆の模範例文を一書にまとめた女筆手本。全文が同じ筆跡であるため、これらの消息文を編者が模写したものであろう。上・中巻に女文を収録し、上巻が「新年祝儀状」~「婚礼祝儀状」の17通、中巻が「子の日祝儀状」~「歳暮祝儀状」の18通で、全文を散らし書きで記す。いずれも御所方など貴人女性向けの披露文を主としており、例文中に古歌や、古歌に含まれる表現を多く採り入れた「引歌」的な手法を用いるのが特徴。また、本文が所々2段になっていたり、付録記事が多彩な点も独特である。さらに、下巻を全て女中の有職故実・礼法関連の記事とするのも異色で、御厨子・黒棚・衣桁の飾り方や、「武家祝言式法」以下、婚礼・出産・通過儀礼・食礼、四季衣装、女中名・人称等について詳述する。このほか、上巻巻末に「色紙寸法・短冊寸法」、中巻巻末に『和漢朗詠集』からの詩歌を載せる。 11女ニョヒツネノヒノマツ(宝永2年)★【往来物】81 SE01338
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★〈堀氏〉寺子往来(2種) 【作者】堀流水軒(直陳)作・書
¥6,480
★〈堀氏〉寺子往来(2種) 【判型】大本1冊。収録順に縦264・256粍。 【作者】堀流水軒(直陳)作・書。 【年代等】宝永2年6月作。正徳4年3月刊。[大阪]岩国屋徳兵衛(宗徳堂)板。 【備考】分類「往来物」。袋綴じ展開収録。後印本も抄録した(用文章の収録順序が一部異なる)。本書は「用文章」「沽券状」「預り証」「諸請状」「寺子教訓書」「船由来記」から成る手本。『商売往来』の作者として有名な京都の書家・堀流水軒が著わした合本科往来。本文を大字・4行・付訓で記す。本書のうち「寺子教訓書」は後世に大きな影響を与え、その後これを原型として寛政元年刊『通俗教訓往来』など多くの往来が生まれた。「抑書筆之道者、人間達万用之根元也。無筆之輩者、得盲者之名、不異木石・畜類。一生之苦、老後之悔以何可喩之哉…」と起筆して、手習い修行中の態度を中心に、日常生活に必要な行儀作法一般にも言及する。また、「船由来記」は元禄16年刊『船由来記』と同板で、同書は池田松翁(松斎)筆であって、堀流水軒筆ではないと考えられる。 10合テラコオウライ-ホリシ(2種)★【往来物】81 SE01096
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★〈玉置〉かな手本(寺沢政辰・宝永3年) 【作者】寺沢政辰書・跋
¥4,000
★〈玉置〉かな手本(寺沢政辰・宝永3年) 【判型】大本1冊。縦267粍。 【作者】寺沢政辰書・跋。 【年代等】宝永3年11月書・刊。[江戸]片野久行板。 【備考】分類「往来物」。『〈玉置〉かな手本』は、四季の風景について多く綴った仮名文と懈怠を戒める教訓文一編から成る手本。本文を大字・三行・無訓で記す。いずれも「浅みとり春たつ空にうぐひすの初音…」のような雅文調の消息で、「人の道、父母への孝について問う文(追伸文で胎教について問う)」を冒頭に、四季順に11通を収録する。春の花見、夏の隅田川夕涼み、萩が彩る秋の待乳山探訪、厳寒の折に香道書を貸す手紙など、季節の推移を主題とした例文である。なお本書所収の仮名文のうち冒頭は『女学仮名往来』の模倣であり、第5・8・9・10状の4通と末尾の教訓文は『〈当用〉大和往来』と全く同じである。刊行年その他から推して、『〈当用〉大和往来』は本書を被せ彫りにしたものであろう。 11女カナデホン-タマキ(寺沢政辰・宝永3年)★【往来物】34 SE01273
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★〈男女教訓・文林大成〉万宝女節用罌粟嚢[女節用家宝大成・女節用集罌粟嚢家宝大成](享保6年) 【作者】山本序周編
¥6,640
★〈男女教訓・文林大成〉万宝女節用罌粟嚢[女節用家宝大成・女節用集罌粟嚢家宝大成](享保6年) 【判型】大本1冊。縦261粍。 【作者】山本序周編。 【年代等】宝永6年初刊。享保6年1月再刊。[大阪]大野木(秋田屋)市兵衛板。 【備考】分類「往来物・辞書」。天地・神祗・人倫・年月・衣食・草木・生類・器財・言語の9部門(「十門部分」最後の「正誤」は事実上の部門ではない)で、御所言葉などの女性語を集めた節用集。享保元年刊『男節用集如意宝珠大成』と対をなし、同じく山本序周編、享保2年刊『文林節用筆海往来』頭書「節用字づくし」とも密接な関連があるが、「女節用集」では人物の注記が長文な点が目立つ。語彙をやや小字・8行・付訓で記し、所々に割注を施す。「女節用集」には諸本があり付録記事などもやや異なるが、底本では前付に「粟嶋之図」「洛陽東山之図」「女中一生諸礼」「〈当世風流〉紋所」「百人一首絵鈔」「万年暦大ざつしよ相生之事」「女ふみこと葉」「男の名づくし」「女中名づくし」等、頭書に「女二十四孝絵抄」「女武者物語絵抄」「茶湯立様・喫様之事」「諸人片言なをし」「産前・産後養生之事」「合食どくけし」「銭売買相場附」「男女かたぎ枕」「女みだれ髪」「妙薬秘方」「五十人一首狂歌尽」「生下未分之語」「京都名物」「〈京都・南都〉大仏殿之伝記」「夢うらなひの事」等を他の女子用往来と共通する付録記事を多数収録する。頭書に「元禄二年まで○○年」の表記が散見されるため、この頃の成立であろう。 11女バンポウオンナセツヨウケシブクロ・オンナセツヨウシュウケシブクロカホウタイセイ(享保6年)★【往来物・辞書】83 SE01350
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★〈宝永武家諸法度〉新令句解[〈武家諸法度〉新令句解〈白石先生諺解〉](正徳2年) 【作者】新井白石(君美キミヨシ・天爵堂)注
¥4,320
★〈宝永武家諸法度〉新令句解[〈武家諸法度〉新令句解〈白石先生諺解〉](正徳2年) 【判型】大本2巻1冊。縦271粍。 【作者】新井白石(君美キミヨシ・天爵堂)注。 【年代等】宝永7年4月制定(武家諸法度)。正徳2年7月初刊。[江戸]唐本屋清兵衛(玉芝堂)板。 【備考】分類「往来物・法制」。袋綴じ展開収録。本書は、宝永7年4月の『武家諸法度』(宝永令)の頒布に伴い、新井白石が成稿した『武家諸法度』の注解本を手本に認めた往来物。本文を大字・4行・無訓で記し、語句の所々に割注を挿入する。白石の『折たく柴の記』によれば、本書の頒布に至る経緯は次の通り。『武家諸法度』は将軍の代替わり毎に発布するのが慣例となっていたため、新将軍家宣は土屋相模守政直に命じ、林大学頭信篤と白石に起草させた。結果的には白石の稿が採用されたが、将軍からは「用字は『元和令』のように漢文体で、助語は仮名で記し、後に仮名を削っても文の体裁をなすように」との注文が付いていた。白石の草稿に対し、土屋政直は「この書き方では今の世の人々に通じない」と苦情を呈したが、「それならば『句解』をつくって一緒に発布せよ」という家宣の提言により白石が『句解』をも起草することになった。なお、本書の刊本は正徳2年板のみで、他は写本である。絶版の説もあるが、京都の永田長兵衛板『享保書籍目録』に本書の書名が見えるので、少なくとも享保頃までは刊行が確認できる。また、8代将軍吉宗が「宝永令」を改めて「天和令」に戻してからは代々これが踏襲されたというから、実際には「天和令」が行われていたが、天明4年刊『〈静世政務〉武家諸法度』や嘉永元年刊『儀則帖』など、往来物の中では幕末に至るまで「宝永令」が命脈を保っていた。 08社シンレイクカイ-ホウエイブケショハット(正徳2年)★【往来物・法制】54 SE01005
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越後返答[白峯銀山目安返状・指上申目安返答書](宝永5年) 【作者】安藤某書カ
¥1,400
越後返答[白峯銀山目安返状・指上申目安返答書](宝永5年) 【判型】特大本1冊。縦295粍。 【作者】安藤某書カ。 【年代等】宝永5年1月書。 【備考】分類「往来物」。『白峯(しらぶ)銀山目安[会津目安・越後返答]』は、越後・会津国境に位置する上田銀山(新潟県魚沼市*旧湯之谷(ゆのたに)村。奥只見湖中に水没)の帰属をめぐる争論において、寛永19年4月に会津側百姓等が幕府に提出した訴状と、それに対する越後側百姓等の同年7月返答書からなる目安往来物(上田銀山をめぐる争論は、幕府の裁許状では、数多い証拠から越後側の主張を正当とし、越後側の勝訴で決着)。本往来は『白岩目安』の影響下に生まれたもので、さらに本往来から派生的に『羽倉目安』が誕生したと考えられる。/新潟県魚沼市と福島県檜枝岐村に属する。寛永18年(1641)銀山が発見され、翌年銀山をめぐる境界紛争が起こり、正保3年(1646)に今日のような両県の境界が確定した(コトバンク参照)。底本は現存最古本。 08社シラブギンザンメヤス・アイヅメヤス・エチゴヘントウ01(宝永5年)【往来物】17 SE00993
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寺沢用文章[寺沢書簡集](2種) 【作者】寺沢政辰書
¥2,120
寺沢用文章[寺沢書簡集](2種) 【判型】大本1冊。収録順に縦267・268粍。 【作者】寺沢政辰書。 【年代等】宝永3年8月、井上氏跋・刊。[江戸]美濃屋又右衛門板。 【備考】分類「往来物」。原題不明(書名は2本とも後簽による)。手紙例文、官名、詩歌等を収録。 03消テラサワヨウブンショウ・テラサワショカンシュウ(2種)【往来物】53 SE00286
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★わかみどり[女筆若みとり・若緑・和歌みどり](4種) 【作者】長谷川妙躰(豊・筆海子)書
¥12,560
★わかみどり[女筆若みとり・若緑・和歌みどり](4種) 【判型】大本3巻3冊、また、3巻1冊。収録順に縦263・260・271・263粍。 【作者】長谷川妙躰(豊・筆海子)書。 【年代等】宝永4年初刊([江戸]御簾屋又右衛門(簾屋又右衛門)ほか板)。江戸中期再刊([大阪]河内屋茂兵衛板)。文化2年求板([伏見]城州屋正二郎板)。 【備考】分類「往来物」。宝永板とその後印本3種を収録。『わかみどり[女筆若みとり・若緑・和歌みどり]』は、長谷川妙躰の初期の女筆手本の一つ。初板本の題簽題は、上巻『わかみどり』、中巻『わかたけ』、下巻『うすもみじ』。上巻は「桓武天皇の御時より此京はしまり、四神相応の地にして、こと更かしこき君の御まつりこと、関の戸さゝぬ折ふしに洛陽御見物候べく候…」で始まる全文1通の女文で、京都の由来から京都周辺の名所旧跡を紹介する。後に『洛陽往来』『京都往来』『都往来』『都巡』『都詣』等の名称で頗る普及した。中・下巻は四季の女文で、中巻に「新年挨拶状」以下8通、下巻に「『源氏物語』講釈に出席する意向を伝える文」以下9通を載せ、巻末に詩歌数編を掲げる。字配りは上・中巻の大半を大字・無訓の散らし書きで綴るのに対して、下巻のほとんどを大字・3行・無訓の並べ書きとする。また、本文余白には紅葉・笹・松葉・丁字などの模様を鏤める(江戸後期頃の改刻本では、これらの模様を全て削除)。なお宝永板初刷り3巻本には各巻見返に挿絵を付す。初板本では上・中巻末に署名があるが、下巻には署名がなく、代わりに板元跋文で「洛陽、筆海子之筆跡」と紹介する。署名が各巻末尾に記載されていることや題簽に上中下の記載がないことから、当初1冊ずつ刊行された可能性もある。 11女ワカミドリ(女筆・4種)★【往来物】157 SE01363
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〈寺沢新撰〉当用往来(4種) 【作者】寺沢政辰書・跋。中沢某跋
¥3,080
〈寺沢新撰〉当用往来(4種) 【判型】大本1冊。収録順に縦263・278・267・272粍。 【作者】寺沢政辰書・跋。中沢某跋。 【年代等】宝永4年8月跋。正徳5年1月初刊。[江戸]野田太兵衛ほか板。 【備考】分類「往来物」。早印本から後印本まで刷りの早い順に4種を収録。書き込みのない2本目を全冊を袋綴じ展開収録し、他は抄録した。本往来は、1月から12月まで各月1通、合計12通の書状を収録した寺沢流手本。大字・4行・無訓で記す。各例文中には種々の語彙や表現が豊富に含まれ、単なる手本や用文章以上の知育的配慮がなされている。例えば第1状は、「聖代万歳を呼ふなる三笠山の松風迄も枝を鳴さぬ御時節、万民の快楽不可過之候…」のように形容句の多い文言で綴られ、「花の下の連歌」における作法、年中行事、四季名所・行楽、諸芸能(文芸・武芸)、故実、儀式等の諸事項に言及する。また、巻末に書体別の字画を示した「草字府」を掲げる。 03消トウヨウオウライ-テラサワシンセン(4種)【往来物】77 SE00290
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★〈世話難字・頭書図尽〉曽我状絵抄 【作者】不明
¥2,800
★〈世話難字・頭書図尽〉曽我状絵抄 【判型】大本1冊。縦232粍。 【作者】不明。 【年代等】宝永5年刊。[江戸]山形屋勘右衛門板。 【備考】分類「往来物」。「曽我状」の本文に頭書絵抄(絵解き)を加えたもの。「曽我状」は、曽我十郎五郎兄弟が富士野の御狩場において工藤祐経らを討ったことをめぐる建久4年(1193)5月晦日付け梶原景時書状と、同6月5日付け曽我太郎書状の往復書簡を装った往来。室町初期頃に成立した『富士野往来』から取材したものと思われる。単行刊本の例は江戸中期以降のものに数種あるが、江戸初期刊本は現存しない。合綴本としては、万治元年・山本長兵衛板『古状揃』所収のものが最古で、もともとは『熊谷状』と合本した形での単行版として行われていたものであろう。このほか、万治2年刊『駿河状並曽我状』(村上平楽寺板)や江戸初期刊『時宗状・曽我状絵抄』などもある。また、一般に『古状揃』においては『大坂状』と入れ替わる形で『曽我状』が収録されるケースが多い。なお、本書巻末に「魚尽」(魚字尽)を収録する。 05歴ソガジョウエショウ★【往来物】7 SE00636
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★花月堂文[〈御家支流〉花月堂文〈并筆道有本篇注解〉](享保17年) 【作者】樋口宗武(花月堂)作・注・書。陰涼軒正賛・源有敬序
¥5,760
★花月堂文[〈御家支流〉花月堂文〈并筆道有本篇注解〉](享保17年) 【判型】特大本1冊。縦279粍。 【作者】樋口宗武(花月堂)作・注・書。陰涼軒正賛・源有敬序。 【年代等】宝永3年7月跋。享保16年10月序。享保17年1月刊。[京都]菱屋治兵衛(次兵衛・福寿軒・宜風坊・八木治兵衛)板。 【備考】分類「往来物」。『花月堂文[〈御家支流〉花月堂文〈并筆道有本篇注解〉]』は、「家流有本篇(いえりゅううほんのへん)」「もしほ(藻塩)」等から成る手本。「家流有本篇」(作者不明)は御家流筆道の根本を述べた書の意味で、和漢の文字濫觴、書流・能書のあらましや、初筆修行の要点などを綴ったもの。続く「もしほ」(樋口宗武作)は、「御手習おほし召立候よし、まことに殊勝の御こころさしにて候…」で始まる仮名文で、和漢能書の故事など引きながら、書道の基本的心得や基礎知識を記したもの。主文に続けて、「御返し」と題した2通の返状で、代表的な筆道書や文房四友の名産地などに言及する。いずれも本文を大字・3行・無訓で記す。また巻末に、「家流有本篇」を数段に分けて詳しく解説した「家流有本篇註解」(樋口宗武注)を掲げる。 04教カゲツドウブン-オイエシリョウ-ナラビニヒツドウユウホンヘンチュウカイ(享保17年)★【往来物】72 SE00391
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廿四孝或問小解[二十四孝或問小解・二十四孝評・二十四孝小解] 【作者】熊沢蕃山(伯継マサツグ・了介・了海・息游軒)注
¥2,000
廿四孝或問小解[二十四孝或問小解・二十四孝評・二十四孝小解] 【判型】大本1冊。縦258粍。 【作者】熊沢蕃山(伯継マサツグ・了介・了海・息游軒)注。 【年代等】宝永7年冬、小山知常(智常軒)跋。文化10年求板。天保6年10月求板。[大阪]藤屋善七板。 【備考】分類「往来物・教訓」。袋綴じ展開収録。蕃山による『二十四孝』の注釈書。各丁の表2分の1上段に孝子肖像を置き、その下段とその裏側(次頁)に孝子小伝とその意義などを解説する。巻末には『二十四孝』に関する問答形式で「孝道至理」を説くが、その中で、弓道の的に喩えて、大舜の孝は黒星を射抜いたが他の孝子は的に当たったようなものだとして、あくまでも大舜を目標にすべきことを諭す。本文をやや小字・10行・ほとんど付訓で記す。 04教ニジュウシコウワクモンショウカイ・ニジュウシコウヒョウ・ニジュウシコウショウカイ【往来物・教訓】43 SE00544
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★六々文章[六々文章〈並詩歌〉](鈴木臨池堂) 【作者】鈴木正真(臨池堂)書。坂甫澄跋
¥4,000
★六々文章[六々文章〈並詩歌〉](鈴木臨池堂) 【判型】特大本1冊。縦320粍。 【作者】鈴木正真(臨池堂)書。坂甫澄跋。 【年代等】宝永7年6月書。寛延2年2月刊。[京都]大和屋伊兵衛(明誠堂)板。 【備考】分類「往来物」。特大本にため、半丁(1頁)ずつスキャンして見開きに加工した。また、最終丁の裏側に寛延2年6月に本書を購入したメモを貼付するので、これも収録した。本書は、「万天下静謐珍重々々…」で始まる集会開催要望の手紙以下、月次会、継目祝宴、参詣、謡講、楊弓の会、蹴鞠の会、十香、詩歌の会、普請出来祝宴など各種行事に伴う案内状、出席通知状、料理方・準備方に関する書状など合計36通を収録した手本。いずれも見開き1丁につき1通ずつ、半丁に大字・3行・無訓で記す。巻末に『和漢朗詠集』からの詩歌8首を綴る。なお、巻末広告に『臨池堂六々詩歌』の書名が見えるが未刊か。 03消ロクロクブンショウ★【往来物】50 SE00345