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寛永昇進録

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★寛永昇進録
【判型】大本3巻3冊。縦239粍。
【作者】三輪某書カ。
【年代等】安政4年書。
【備考】分類「伝記」。阿部忠秋の逸話を集めた伝記で、全3巻から成る立身出世譚。上巻には「劔術御稽古始豊後守御相手之事、并ニ菊御遊御不興を蒙る事」、中巻には「豊後守殿切腹を止る事、并ニ大久保彦左衛門御諫言之事」、下巻には「江戸大水豊後守殿乗渡る事、并ニ豊後守殿昇進之事」を収録する。なお、阿部忠秋(1675-1602)は、江戸前期の近習出頭人、老中、下野壬生(栃木県壬生町)、武蔵忍藩(行田市)藩主。豊後守。旗本阿部忠吉の長男。母は松平康高の娘。江戸生まれ。幼少から徳川家光に仕え、膳番、小姓組番頭などを歴任しながら出世。寛永3(1626)年には1万石。同6年に1万5000石。10年松平信綱や従兄の阿部重次らと六人衆に任命され、近習出頭人として幕政に参画、以後次第に土井利勝ら秀忠以来の老中を棚上げしながら、家光政権の確立に尽力、幕政の中心的存在となる。同年老中並、12年壬生藩主となり2万5000石、同年10月老中に進み後31年間在任。同16年忍に移封5万石。この前後に江戸周辺の城に家光政権の老中らが入城、彼らが政治的にも軍事的にも幕府を支える体制を確立。正保4(1647)年6万石。慶安3(1650)年家綱の傅役。翌年家光が死去すると、松平信綱と幼少の将軍家綱をもり立て幕政を運営。しかし酒井忠清ら門閥譜代層が幕政に進出し、次第に家光以来の政治理念の変更を余儀なくされ、寛文2(1662)年僚友の松平信綱が死去すると幕閣内で孤立。翌年8万石となるが、5年老病との理由から勤務を免除され、翌6年老中を辞職。11年致仕して養子の正能に家督を譲る。死後、遺言して日光の家光廟の脇に分骨を埋葬。捨子を育てたり牢人を保護するなど、清廉篤実な人柄で人望が厚かった。才気走った松平信綱とよく比較され、信綱をたしなめる逸話が多い(コトバンク)。SE02416

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