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祭礼節解

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祭礼節解
【判型】大本2巻2冊。縦264粍。
【作者】三宅鞏革斎(キョウカクサイ・三宅道乙ドウイツ)作。
【年代等】寛文7年4月刊。[京都]田中文内板。
【備考】分類「祭祀」。白嵜顕成「藤村庸軒をめぐる人々(2)」(『教育諸学研究』第17巻)によれば、『祭礼節解』は、三宅道乙が『家礼』を我が国の習俗に合うように注釈し、書き改めたものである。儒教では、人間を精神と肉体とに分け、精神の主宰者を魂(『祭礼節解』では神)と呼び、肉体の主宰者を魄(『祭礼節解』では神)と呼ぶ。人間は死ぬことによって、魂は天上に、魄は地下に行くことになる。そこで祭を執行する場合、先祖の魂と魄をこの世に呼び戻し、それぞれの神主に魂と魄を招く。香木を焚いて天上の魂を招き、酒を地上に置かれた茅沙に注いで地下の魄を招く。これが「降神」と云われるものである。三宅亡羊が亡くなった時、道乙は朱子の『家礼』にもとづき、日本の風土に合せ、修正すべきは修正し、略すべき所は略し、儒教式の葬送儀礼にもとづいて、喪祭を行った。しかし当時、今だ我国においては、儒教式の喪祭は理解されず、笑われたという。それで道乙は、『喪禮節解』と『祭禮節解』を著し、喪礼と祭礼について解説すると共に、『家礼』の注釈をなした。『祭礼節解』は当時の宗教儀礼の内容や式次第を知る上での貴重な資料である。
 また、吾妻重二「日本における『家礼』の受容―林鵞峰『泣血余滴』、『祭奠私儀』を中心に―」(東アジア文化交渉研究 第3号)によれば、『家礼』は、遅くとも室町時代中期すなわち15世紀には完本がもたらされていたことが確認できるが、しばらくの間、特に反響をもたらすこともなく、江戸初期に初めて脚光を浴び、仏教式ではない儒教式の「礼儀」といえば『家礼』を指すようになる。陽明学者の中江藤樹はすでに寛永4年の時点で祖父を『家礼』によって祭り、陥中をもつ『家礼』式の神主を作っているから、『家礼』の祭礼実践例としてはかなり早い。慶安元年の藤樹の葬儀も、門人により『家礼』に沿って行なわれた。これら藤樹たちの神主は、今なお滋賀県高島市の藤樹書院に見ることができる。また、山崎闇斎は慶安3年に先祖の神主を作り、その祭祀も『家礼』によった。さらに闇斎は承応2年の姪の葬儀や延宝6年の会津藩士、安西平吉の葬儀も『家礼』に従って行った。京都の朱子学者、中村惕斎は明暦元年に住居の一隅に祠堂をかまえ、三世の木主(神主)を安置して祭祀を行なったが、これも『家礼』によるものであった。惕斎はその後、『家礼』にもとづく喪礼と祭礼を実施し、さらに元禄3年、喪礼の書として『慎終疏節』4巻を、祭礼の書として『追遠疏節』1巻を著わし、さらに補足として『慎終通考』7巻および『追遠通考』5巻を残した。京都の三宅鞏革斎は、藤原惺窩門人の三宅寄斎の養子であったが、慶安2年、寄斎の死去に際し、これを『家礼』および『儀礼』にもとづいて埋葬した後、寛文元年に『喪礼節解』2巻を、寛文7年には『祭礼節解』2巻を刊行した。この時期、平仮名の和文による『家礼』の解説書も著わされており、京都の書肆兼学者の大和田気求(? —1672)の『大和家礼』8巻、および中村惕斎の友人、藤井懶斎(1626—1706)の『二礼童覧』2巻などがある。以上の様に、江戸初期の17世紀初めから後半にかけて一部の儒者・儒教共鳴者により『家礼』が研究されており、『家礼』にもとづく喪礼と祭礼がたて続けに実施されているのは注目に値する現象であり、当時の儒教思想家の多くは、とりもなおさず儒教儀礼の実践者でもあった。SE02959

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