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訓蒙測地新法
¥2,000
訓蒙測地新法 【判型】半紙本1冊。縦212粍。 【作者】(米国)ジルレスピー氏原作。岡本則録編訳・序。 【年代等】明治6年自序。明治6年12月刊。[大阪]梅原亀七板。 【備考】分類「測量」。SE02647
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君道要法
¥2,000
君道要法 【判型】特大本1冊。縦278粍。 【作者】不明。 【年代等】江戸後期書カ。 【備考】分類「兵法」。新楠流兵法書。表紙に旧蔵者「英親」の署名。 SE02646
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君道
¥2,000
君道 【判型】大本1冊。縦270粍。 【作者】荀子(蘭陵荀卿子)作。入江北海(貞・子実)注・序。藤堂高敦序。沢田東江(源鱗)書。【年代等】安永9年秋、藤堂高敦序。同年8月自序・刊。[江戸カ]愚谷園蔵板。 【備考】分類「漢学・政治」。序第1丁欠。入江北海は出羽生まれで江戸に出て入江南溟の養子となり、後に伊賀上野藩儒となる。藤堂高敦は伊勢・久居藩藤堂家第7代当主。SE02645
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君臣要訣
¥1,000
君臣要訣 【判型】大本1冊。縦268粍。 【作者】赤松滄洲(赤松鴻・国鸞・五陰洲山人・沿洲・静思翁) 作・序。今井思誠書。 【年代等】寛政11年夏自序。文化2年閏8月、今井思誠書。文政11年、貞幹書。 【備考】分類「教訓」。「君道」と「臣職」の二部に分けて、経書等を引きながら君臣の道を説いた教訓書。作者の赤松滄洲(あかまつそうしゅう、享保6年(1721年)-寛政13年1月8日(1801年2月20日))は、江戸時代中期の儒学者。名は鴻、字は国鸞。沿洲・静思翁と号す。通称は大川良平。父は舟曳通益。播磨三日月に生まれる。17歳の時、赤穂藩医の大川耕斎の養子となったが、舟曳・大川ともに播州の豪族・赤松氏の支族であるので、文詞の上においては赤松を称した。若くして京に出て、医学を香川修庵、儒学を宇野明霞に受けたが、医者となるのを欲せず、延享4年(1747年)に赤穂藩儒となり、藩主に建言して学舎を起こし、藩士の教育にあたった。その後に累進して家老に至り大いに治績をあげる。宝暦10年(1760年)に致仕し、京都に出て講説で生計を立てた。寛政異学の禁が起こった時、その実行者の一人である柴野栗山に書を与えて異学の禁が不当であることを切言した。平生は片山北海と親交あり、一書を著わすごとに北海に校訂させたという。寛政13年(1801年)正月8日に没する。享年81。著書の刊行されたものに『静思亭文集』10巻がある(Wikipedia参照)。SE02644
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君子訓(天保14年・江戸板)
¥1,200
君子訓(天保14年・江戸板) 【判型】半紙本3巻2冊。縦230粍。 【作者】貝原益軒(篤信・久兵衛)作。 【年代等】天保14年10月刊。[江戸]山城屋佐兵衛板。 【備考】分類「儒学・教訓」。治民経済の道を論じた書。自序に「公侯大人の見聞に富める人のために記すにはあらず、只一村を治むる小吏、一郡を預かる代官のうちに、古の道に志ありて、経史を見聞するに便なき人のため」に記したとあるが、主として経史を引用して、平易に経済の道、民を治める法、古の道を述べたもので、その太平の世に生をうけたことを感謝しつつ、なぜ、そのような太平の世となったか、恵みの原因を追求し、それに報いるよう努力すべきことを説く(「日本思想史文献解題」参照)。なお、本書の初刊は天保13年8月板(夜須郡曽根田村・佐藤藤右衛門蔵板)で、天保14年板とは全くの異板。村主、村役人などといった人々の為の訓えを述べたもの。所謂益軒十訓の内の一書(福岡大学HP参照)。 SE02642
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君子訓(天保13年・筑前板)
¥3,560
君子訓(天保13年・筑前板) 【判型】半紙本3巻3冊。縦230粍。 【作者】貝原益軒(久兵衛・篤信・損軒)作。 【年代等】元禄16年作。天保10年10月、月形質(鷦窠・君璞)跋。天保12年閏1冊、林培斎(皝・用韜・檉宇テイウ)序。天保13年5月(至日)、江藤良東跋。天保13年7月刊。[筑前夜須郡曽根田村]佐藤藤右衛門板。 【備考】分類「儒学・教訓」。治民経済の道を論じた書。自序に「公侯大人の見聞に富める人のために記すにはあらず、只一村を治むる小吏、一郡を預かる代官のうちに、古の道に志ありて、経史を見聞するに便なき人のため」に記したとあるが、主として経史を引用して、平易に経済の道、民を治める法、古の道を述べたもので、その太平の世に生をうけたことを感謝しつつ、なぜ、そのような太平の世となったか、恵みの原因を追求し、それに報いるよう努力すべきことを説く(「日本思想史文献解題」参照)。なお、本書の初刊は天保13年8月板(夜須郡曽根田村・佐藤藤右衛門蔵板)で、天保14年板とは全くの異板であり、「数村の大庄屋をつとめた佐藤藤右衛門が天保十年(1839)頃、未刊の益軒著作「君子訓」の写本数本の校訂を月形質に依頼し、更に当時江戸の林家に入門していた筑人江藤良東(えとう・りょうとう)を介して林培斎(はやし・ばいさい)の序を乞い、久留米の彫師中沢嘉右衛門に板刻させて刊行した私版の一つ」で、「村主、村役人などといった人々の為の訓えを述べたもの。所謂益軒十訓の内の一書である。益軒著述の多くがその生前京都の茨城氏(柳枝軒)などの大書肆から刊行されているのと違って、本書は筑前の一庄屋の手で、しかも久留米の彫師を起用して田舎版として刊行された所に、大きな意義があり、更に本書は田舎版の通例に似ず、彫り、摺り共に見事な出来栄えを示している」(福岡大学HP)。 SE02641
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★群賢押譜
¥2,160
★群賢押譜 【判型】中本1冊。縦155粍。 【作者】竹村某編。丁橋漁人序。 【年代等】文政6年7月、井上高輪跋。文政7年5月刊。[京都]中川藤四郎ほか板。 【備考】分類「花押」。大徳寺の歴代住持花押集。宗峯妙超から大竜宗史までの68人の花押を収録する。SE02640
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黒谷上人語燈録[和語燈録](寛永20年)
¥5,080
黒谷上人語燈録[和語燈録](寛永20年) 【判型】大本5巻・拾遺2巻7冊。縦265粍。 【作者】源空(法然)説。了慧(了恵リョウエ・道光)編・序。 【年代等】元亨元年7月作。文永12年1月編者序。寛永20年1月刊。[京都]吉野屋権兵衛板。 【備考】分類「浄土」。第1~5巻「和語燈録」、7~8巻「拾遺」。『和語燈録』は5巻、拾遺2巻。仏教。了恵道光(浄土宗鎮西義の三条派の僧)編。文永12年(1275)正月25日の自序がある。浄土宗の祖法然が没してから、約100年を経た当時、同宗の教団は十数流に分かれて異義紛々としているなかで、念仏する者が正邪を弁える指針にしようと、法然の著書・講説・制誡・消息などのうち、和文体のものを集めたものであるが、中には史料として疑わしいものも含まれている。なお、本書と同様の主旨で漢文体のものを集めたものが『漢語燈録』10巻拾遺1巻で、『和語燈録』と合わせて「黒谷上人(円光大師)語燈録」と呼ばれる(「日本古典文学大辞典」参照)。SE02639
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黒谷源空上人伝[円光大師伝・黒谷上人伝](延宝4年)
¥1,000
黒谷源空上人伝[円光大師伝・黒谷上人伝](延宝4年) 【判型】半紙本1冊。縦234粍。 【作者】聖覚作カ。 【年代等】延宝4年1月初刊。江戸後期後印。[江戸]和泉屋新八板。 【備考】分類「浄土」。SE02638
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〈西国・洛陽三十三所〉観音霊験記(貞享4年)
¥6,760
〈西国・洛陽三十三所〉観音霊験記(貞享4年) 【判型】半紙本5巻5冊。縦232粍。 【作者】松誉(雲水庵沙門)作。 【年代等】貞享4年6月刊。[京都]小林半兵衛板。 【備考】分類「仏教・地誌」。袋綴じ展開収録。『〈西国・洛陽三十三所〉観音霊験記』は、日本最古の観音巡礼である「西国三十三所観音霊場」と、西国巡礼が困難な場合などに西国三十三所に代えて参拝された京都府内の「洛陽三十三所観音霊場」の観音霊場(札所寺院)の案内書。貞享4年板は最古本。まず、西国三十三所各寺院の山号・寺院名・本尊(名号および図像)・本堂、また、京都を起点とする巡礼路における前の札所からの距離や開基から貞享4年までの年号その他の略縁起を半丁2段組で掲げた後、数丁にわたって故事来歴や主要堂塔、御詠歌などを紹介し、続いて洛陽三十三所各寺院の本堂と御詠歌を載せる。1巻に西国および洛陽三十三所の一番から五番、同様に、2巻に六番から十三番、3巻に十四番から二十番、4巻に二十一番から二十五番、5巻に二十六番から三十三番を収録。SE02637
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〈寛文年中〉黒川山論訴答願書扣(信濃国筑摩郡)
¥2,000
〈寛文年中〉黒川山論訴答願書扣(信濃国筑摩郡) 【判型】大本1冊。縦239粍。 【作者】不明。 【年代等】江戸後期書。 【備考】分類「訴訟」。袋綴じ展開収録。『黒川山論訴答願書扣』は、現在の長野県中西部、東筑摩郡の黒川山に関する訴訟記録。信濃国筑摩郡竹田村・小坂村・大池村(以上3村は合併し、現・長野県東筑摩郡山形村)と同郡波田村(現・松本市)との山論など、竹田・小坂・大池3カ村の黒川山草場をめぐる次の訴訟の各種文書を収録。 (1)寛文11年4月、竹田・小坂・大池3カ村訴状、および、御裏書之覚、上波田村・下波田村・新村3カ村返答書ほか。(2)寛政12年4月、波田村・小坂村訴状(「差上申済口証文之事」)、および、「大池村内済熟談一札」。(3)文化2年10月、新村・波田村訴状(「赤松窪一件内済一札」)。(4)文政6年6月「済口証文」。SE02636
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〈絵入〉雲のかけはし[当流雲濃かけ橋・恋のかけ橋](2巻)
¥700
〈絵入〉雲のかけはし[当流雲濃かけ橋・恋のかけ橋](2巻) 【判型】大本1冊(全5巻中)。縦255粍。 【作者】柳心作。 【年代等】享保頃刊。刊行者不明。 【備考】分類「浮世草子」。5巻5冊。作者・刊年不明(『日本小説書目年表』は享保4年刊とする)。 内容は、巻一は蔵人頭とあかしの三位殿の姫君の恋物語、他4巻は町人滝川八右衛門とおそな、その子八之丞の親子二代にわたる好色生活を、時には『源氏物語』や、出典及び類題を示す和歌を交え、女筆の読み方まで示す艶書と、地の文で描く。一見全体の構成が不統一の如くであるが、浮世の好色の種々相を素材に、煩悩即菩提を悟って出家隠遁する堂上方の中世風な恋は夢と笑い、家を中心にした町人の二代にわたる現実的な恋を描く。それは、正徳6年刊『新薄雪物語』が「都賢女鑑」の副題のもとに刊行される時代の気運の中で、当時女子用往来物としても歓迎された中世風の仮名草子『薄雪物語』の批判にもなり得ている。即ち、「神をたのまず、我心を正しくして」先祖の祀の絶えぬように、子々孫々に伝える家を守り、他人をもこの世の誠の道に導く貞女おそなの行為が、この作品の主題である(「日本古典文学大辞典」参照)。 SE02635
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熊野遊記・熊野名勝図画(2種)
¥3,360
熊野遊記・熊野名勝図画(2種) 【判型】大本3巻3冊(熊野遊記1巻、熊野名勝図画2巻)。収録順に縦262(天・地)・270(人)・273(改装本)粍。 【作者】北圃恭(キタバタケヤスシ、仲温・北圃恪斎カクサイ・須原屋茂兵衛)作。 鈴木芙蓉(老蓮・木芙蓉・芙蓉木雍ボクヨウ)画。 【年代等】安永3年春、太室井孝徳序。寛政12年9月、芙蓉木雍跋。寛政13年1月刊。[江戸]須原屋茂兵衛板。 【備考】分類「紀行・地誌」。原装取り合わせ3冊本と改装本の2種を全冊収録した。『熊野遊記・熊野名勝図画』は、安永2年8月、紀州湯浅より熊野に遊んだ際の漢文体紀行文。同行者は隣郷の真宗僧積門離染とその女阿歌及び従者1人。行程は、8月12日:出立、湯浅より博川、井関村、河瀬村、原谷村、塩屋村(泊)、13日:白河帝行宮趾、上野村、印南村、切目村、千里浜、南部村(泊)、14日:境村、牛鼻、田辺、三栖村、鍵岩、芝村(泊)、15日:高原阪、十条村、野中村(泊)、16日(本文では「十五日」に誤る):赤城村、湯川村、茨城、湯峰村(泊)、17日:無音里、本宮村本宮、(熊野川を舟行、以上上巻)、新宮(泊)、18日:西谷、佐野、宇久井、太池崎、赤色浜、那智(泊)、19日:大悲閣、雲鳥阪、妙法嶺、地蔵茶坊、石堂村、小口村(泊)、20日:川合村、請川村、本宮(泊)、21日:高原(泊)、22日:三栖阪、芳養村、岩白(泊)、23日:小松原、博川、湯浅(帰宅)。名所旧跡の歴史譚を交えつつ、風景・風俗や見聞を描写する。巻2・3は「図画」で、名勝風景の写生画集。末尾に、描かれた地名についての解説を付す。著者は江戸の大書肆須原屋茂兵衛(刊行時の須原屋の先々代)で、郷里の湯浅にも家があった。天明2年没、52歳。序によれば、名勝地である熊野に記が無いために、渋井太室が勧めて記文を作ったもの。跋によれば、絵は著者没後に子の須原屋主人の依頼により鈴木芙蓉が熊野に出かけて写生したが、寛政11年に主人が没したため、翌年夏にその子(著者の孫)が江戸に来た際に絵を託したという。なお、旅行の年は、本文に「今茲丁巳之秋」とあり、丁巳は寛政9年であるが、安永3年春の渋井太室序に著者が「懐記来謁」とあり、その前年の安永2年癸巳の誤記と推定した(西尾市岩瀬文庫・古典籍書誌DB)。SE02634
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熊沢了介先生事跡考[熊沢先生事跡考・熊沢先生伝]
¥700
熊沢了介先生事跡考[熊沢先生事跡考・熊沢先生伝] 【判型】大本1冊。縦259粍。 【作者】清水臥遊(清水信)作・跋。 【年代等】文化8年8月自跋。文化11年4月、閑谷武元(君立)序・刊。刊行者不明。 【備考】分類「伝記」。熊沢蕃山の伝記・著作一覧。 SE02633
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熊沢先生心学五倫書(五倫書)
¥700
熊沢先生心学五倫書(五倫書) 【判型】大本1冊。縦264粍。 【作者】熊沢蕃山(了介)作(仮託)。 【年代等】江戸中期刊。[大阪]吉田善蔵板。 【備考】分類「教育」。SE02632
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陸路廼記[くぬか路の記]
¥8,000
陸路廼記[くぬか路の記] 【判型】半紙本2巻2冊。縦226粍。 【作者】近藤芳樹作。 【年代等】明治11年12月著者附言。明治13年6月刻成。明治13年8月、杉孫七郎序・刊。[東京]宮内省蔵板。 【備考】分類「紀行・地誌」。袋綴じ展開収録。明治11年(1878)の天皇の北陸巡行に随行した作者が、各地の古来の伝承などを紹介しつつ、それに対する感想、或は反論を述べたり、和歌を詠むなどしている。国学者である作者の、「万葉集」を始めとする様々な文学についての豊富な知識を活かした、鋭い意見が随所にみられる。作者が関心を持つ場所も、一般的な名所のみならず、そのような知識に基づくものがある点も興味深い(奈良女子大学学術情報センターHP参照)。 SE02631
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〈彼岸土産〉功徳長命鈔
¥2,000
〈彼岸土産〉功徳長命鈔 【判型】大本1冊。縦258粍。 【作者】大空慈円(大慈円)作・序。 【年代等】文政11年9月自序。文政11年9月刊。[京都?]いよや佐右衛門板。 【備考】分類「真宗」。書名の如く「功徳長命」を願う者ために、一問一答形式で、善因善果・悪因悪果や善根功徳の趣きを説いた絵入りの仏教系教訓書。本文冒頭で、この世における人々の富貴や善悪吉凶の違いの生ずる理由を尋ねる問いを掲げ、それに対して、善業・悪業が三世にわたる道理を述べ、長命富貴の心掛けとして、父母の骨肉を分けた我が身を大切にし、正直を守り、美食を避けるなどの養生に努め、奢らぬ生活を勧める。続いて、信心に励んだとしても寿命の長短は定業ではないか、あるいは、仏法の教えに延年長寿の法はあるのかとの問いに対し、人間の寿命は基本的に60歳であるが、出生後より、母親の食生活や信心などの心掛けによって本来の寿命に伸ばすことができる旨などを諭す。以下、同様の問答によって、日頃の仏事供養、如来や祖師への供物、年回供養や法事運営の心得、臨終作法等について述べ、巻末に「世間の馳走」と「仏門の食」の上中下について記す。 SE02630
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愚禿鈔・浄土文類聚鈔(寛永板・2種)
¥2,000
愚禿鈔・浄土文類聚鈔(寛永板・2種) 【判型】大本2巻1冊。収録順に縦253・255粍。 【作者】親鸞作。 【年代等】建長7年8月作。寛永13年11月刊。[京都]西村又左衛門板。 【備考】分類「真宗」。同板別本(「浄土文類聚鈔」を付さない)も全冊収録した(袋綴じ展開収録)。『愚禿鈔』の古写本には建長7年(1255)に書いた旨の奥書があるが、『教行信証』成立以前の著作とみる説が有力。『愚禿鈔』の内容は、先徳の言葉に導かれて、親鸞自身が理解した信心についての認識を整理してまとめたもの。「愚禿」とは、自署名に「愚禿親鸞」とあるように、流罪以後に用いた親鸞自身の呼び名で、愚かでかぶろ髪をした賤しい者の意。本書の初めに「賢者の信は、内は賢にして外は愚かなり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」とあり、末法に生まれ合わせた愚禿者の立場にふさわしい法門は、阿弥陀如来の選択本願を除いて他にないことを明らかにしている。上巻は仏教における本願念仏の位置づけをし、下巻では主として善導の文章を引き、「至誠心」「深心」「廻向発願心」の三心の本意を明かしている(「日本古典文学大辞典」参照)。また、『浄土文類聚鈔』は、鎌倉時代初期の日本の僧・親鸞の著作である。浄土真宗の要義を書き記した論書である。本書は、『教行信証』(広文類)に対して『略文類』(略典)とも呼ばれる。製作年代は特定されておらず、主著である『教行信証』の前後であろうとされているが、論義が分かれる。内容は、浄土三部経と龍樹・世親・曇鸞・善導の論書を引用して、浄土教の教えと、浄土への往生の方法と、親鸞が重要視した「往相と還相」について述べている。本書の内容に対して『教行信証』は、浄土三部経以外の経典、道綽・源信・源空などの多くの典籍を引用することで詳説しているので「広文類」と呼び、本書を「略文類」と呼び習わしている。また本書には、「真仏土巻」「化身土巻」の内容が記されていない(Wikipedia参照)。 SE02629
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燭夜文庫[久多可戯文庫・くだかけぶんこ]
¥1,460
燭夜文庫[久多可戯文庫・くだかけぶんこ] 【判型】半紙本2巻2冊。縦221粍。 【作者】畑金雞(畑金鶏・畑秀竜ヒデトキ・奇々羅金鶏キキラキンケイ・赤松金鶏)作。朱楽漢江・平秩東作・山東京伝題字。狂歌堂真顔序。 【年代等】寛政2年8月、四方山人(大田南畝)序。寛政8年9月、橘洲散人序。寛政12年4月初刊([江戸]須原屋安兵衛ほか板)。明治初年後印。[大阪]前川善兵衛板。 【備考】分類「狂文」。狂文を賛・銘・箴・解・序・賦・記・伝・説・読・頌・跋・尾・文・雑文・書・辞・弔文・祭文の19項目に集め、付録に東路記、江月楼探題三十五首狂歌、炬燵俳諧一百句、追加に俳諧賛物詞書類を添える(「日本古典文学大辞典」参照)。 SE02628
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九想詩諺解
¥1,480
九想詩諺解 【判型】大本2巻1冊。縦257粍。 【作者】坂内直頼(サカウチナオヨリ、坂内山雲子・白慧・葉山之隠士)作・序。 【年代等】元禄6年秋自序。元禄7年2月刊。[京都]永田調兵衛板。 【備考】分類「漢詩・注釈」。袋綴じ展開収録。上巻は蘇東坡(蘇軾)作「九想詩」の注釈書、下巻は「貝葉ノ金句并ビニ倭漢ノ明言」。九相図(九想図、くそうず)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。名前の通り、死体の変遷を九の場面にわけて描くもので、死後まもないものに始まり、次第に腐っていき血や肉と化し、獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれる。九つの死体図の前に、生前の姿を加えて十の場面を描くものもある。九相図の場面は作品ごとに異なり、九相観を説いている経典でも一定ではない。『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。①脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。②壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。③血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。④膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。⑤青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。⑥噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。⑦散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。⑧骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。⑨焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。──死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。大陸でも、新疆ウイグル自治区やアフガニスタンで死屍観想図像が発見されており、中国でも唐や南宋の時代に死屍観想の伝統がみられ、唐代には九相図壁画の存在を示唆する漢詩もある。仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。題材として用いられた人物には檀林皇后や小野小町がいる。檀林皇后は信心深く、実際に自身の遺体を放置させ九相図を描かせたといわれる(Wikipedia参照)。SE02627
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句雙紙[句双紙]〈片カナ附〉
¥3,360
句雙紙[句双紙]〈片カナ附〉 【判型】横本2巻2冊。縦123粍。 【作者】東陽英朝編。 【年代等】元禄6年9月初刊([京都]井上忠兵衛門ほか板)。江戸中期後印。[京都]小川多左衛門(柳枝軒*朱印を押す)板。 【備考】分類「禅宗・漢詩文」。もと『宗門葛藤集(句双葛藤鈔・葛藤集)』と題した禅林句集で、もと文明年間に編纂され、江戸前期に至るまで大きく3系統の派生を示した。元禄板は室町末期写本(蓬左文庫本)を大幅に増補した第2類に属す。編者については、貞享5年頃刊行の『禅林句集』跋文によれば、『句双紙』は東陽英朝の編集とされる(近藤良一「『句双紙抄』について(2)」、北海道駒澤大学研究紀要20)。 SE02626
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久世条教(2種)
¥2,000
久世条教(2種) 【判型】半紙本1冊。収録順に縦228・225粍。 【作者】早川正紀(八郎左衛門)作。小寺清光序。 【年代等】寛政11年3月作。同年4月序・刊。[作州久世]典学館蔵板。[大阪]塩屋平助売出(別本[大阪]浅野弥兵衛売出)。 【備考】分類「教訓」。後印本([大阪]浅野弥兵衛売出)も抄録。寛政7年設立の教諭所「典学館」で使用された教訓書。江戸時代後期の名代官・早川正紀によって設立された幕府代官地最初の教諭所である美作国久世の「典学館」(1795年)や、備中国笠岡の「敬業館」(1798年)で農民教化に用いられた教訓書。「勧農桑(のうそうをすすむ)」「敦孝弟(こうていをあつくす)」「息争訟(そうしょうをやむ)」「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」「完賦税(ふぜいをまっとうす)」「禁洗子(せんしをきんず)」「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」の7カ条からなる。このうち第5・6条を除く5カ条は、中国清の聖祖が康煕9年(1670)に通達した『康煕聖諭』16カ条にならったものである。早川正紀は、疲弊・荒廃した地域の復興のために教諭所を建てて、本書を月三回民衆に教諭したという。久世などに見られた堕胎・間引きの悪風を改めるために、特に「禁洗子」の一条を盛り込み育児を奨励したもので、本条では「天の三光(日月星)が日夜怠りなく運行を続け、地が陰陽寒暑の狂いなく往来して五穀・草木・禽獣を始め万物を生育してくださるのも、全て子である人間に対する無限の恵みである。このように我が子をあわれむのが天の道である」ことを教え、また「どんなに貧しい家庭でも、母の乳房が二つあれば二人の子どもは養えるものである。しかし三つ子では乳房も不足することから、相応の養育費が支給される有難い世の中になっている。このように、公儀では赤子一人ですら大切になさるのに、本当の親でありながらわが子を殺すことは言語道断の悪事である」と述べて、間引きが天地の道に背く行為であることを戒める。SE02625
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くず花[葛花](3種)
¥2,840
くず花[葛花](3種) 【判型】大本2巻2冊。収録順に縦264・261・261粍。 【作者】本居宣長作。市岡孟彦跋。 【年代等】安永9年作。享和3年1月刊。市岡孟彦蔵板。[名古屋]永楽屋東四郎(東壁堂)板。 【備考】分類「国学」。後印本など3種を収録した。このうち冒頭の1本には「文政十亥年晩秋求之」の記載あり。『くず花(葛花)』は、市川匡麿(多門)の『直毘霊』批判(『まがのひれ』)を詳細に反駁した書。「葛花」の書名は、漢籍の毒酒の酔いを除去する薬草の意味。宣長の古道論を知るうえで不可欠の書。本書を契機にさらに論争が激化した。『まがのひれ』における宣長の儒教並びに聖人の排除、天照大御神を祖とする皇統の賛美、皇国優越の主張、『古事記』『日本書紀』所伝への盲従、老荘の自然説の影響などの指摘批判に返答したもの。宣長は、本書で再度皇統の尊厳と皇国の優越を説き、「記紀」の伝えの信ずべきこと、儒教および聖人の有害無益なる所以等を述べ、儒教に対抗しての老荘の自然と儒教渡来以前の神の道の自然とは自ずから異なるとの反論を為した(「日本古典文学大辞典」参照)。SE02624
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楠兵庫記[楠兵庫巻・太平兵庫記](明暦元年)
¥1,000
楠兵庫記[楠兵庫巻・太平兵庫記](明暦元年) 【判型】大本1冊。縦277粍。 【作者】不明。 【年代等】明暦元年5月刊。刊行者不明。 【備考】分類「兵法」。袋綴じ展開収録。本書は、楠正成が兵庫より故郷に帰る時、家臣渡辺勇へ贈った書で、「文武の事」「君と臣との事」「大将道を守る事」等から「将士理官の事」「古今軍品々の事」等に至る44カ条で将士戦争の道を示したものだが、多くの学者はこれを偽書とする(『国書解題』参照)。一方、『楠氏研究』には本書の序文の内容を踏まえながら、「此兵庫の記は楠判官正成が、兵庫より恩地を故郷へ帰しける時、正行が方へ送りし一巻の書なり。赤松満祐秘蔵して、家の書と号して、人に授くる事なかりしに、嘉吉2年の春、時を得て望み出し、書き加へて、此書の亀鑑に備ふる者也。この一巻の書四十二ヶ条、精微の実事を記し、教戒の心を本とす、略ぼ攻戦の事に便にして、勝負の源を示し、王道を傍らに説き、其心を述べて、政道の是非を知らしめ、終には色を忌みて、上下を戒め、古今の心をとつて、八陣を教へ、治乱共に用うべき識書也」と記し、箇条数が一致しないが、刊本最古本の明暦元年板には「文武の事」から「古今軍品々の事」までの43カ条を載せる。 SE02623
東京都公安委員会許可
第308942220838号
古物商 (書籍商)